El Camino de SANTIAGO

2004.9.2-9.20

世界遺産に登録されている巡礼街道を、歩いてきました。下記に紹介します。(更新2004.10.31)

 

Camino(カミノ;スペイン語で道を意味します。下記では「巡礼路」、「巡礼路に書かれた矢印”→”」、「巡礼する人」、「巡礼達の挨拶用語」 など巡礼の様々な場面で使われる言葉として使っています。)


凡例・・《○○km》・・・SANTIAGO DE COMPOSTELAまでの距離。《 》に続く ○○kmは1日の歩行距離。
写真の上にマウスを置くと、数秒間、写真番号が表示されます。---写真番号は撮影時間となっています。例えば、”0409ddhhmm”は2004年9月dd日、hh時間mm分を意味します。 
1ユーロは133円として読んでください。


全体説明 0409151901.jpg

 キリスト昇天の後スペインを伝道して回っていた聖ヤコブ(スペイン語でサンチャゴ)(福音書記者 聖ヨハネの兄)は7人の弟子を連れてユダヤに戻ったが、紀元44年エレサレムで殉教した。その亡骸は海へと運ばれ、風にまかせて航海し、スペイン北西部Galicia(ガリシア)の海岸、最果ての地;FINを意味するFINISTERIA(フィニステラ:ガリシア語、スペイン語ではFISTERRA;フィステラ)にたどり着いたという。そこからから90kmほど内陸の地SANTIAGO DE COMPOSTELA(サンチャゴ デ コンポステラ;日本語に訳すと "星の野原"(COMPOSTELA)の聖ヤコブ(SANTIAGO))に運ばれ、大理石で覆われた墓が埋められた。後世 偶然「発見」され、その上に聖堂たてられた。改築を重ね、現在のロマネスク建築の大聖堂となった。伝説かもしれないが、中世、イスラム教徒との戦いでの心の支えとなったことは確かである。人々は、ドイツ、イタリア、イギリス、北欧からと、ヨーロッパ中の人々は、アルプスを越え、ピレネー山脈を越え、キリストの生誕地エレサレム、聖ペテロの眠るローマと並ぶ世界三大巡礼地としてSANTIAGO DE COMPOSTELA(サンチャゴ デ コンポステラ )を旅するようになった。最盛期の12世紀には年間50万人が歩いたということである。この道がCAMINO(巡礼路)として現在も使われ、1993年の世界遺産登録や、ブラジルの作家でサンチャゴ巡礼体験を、「星の巡礼」として世に出し、その後「アルケミスト」で一躍有名になったPaulo Coelho;パウロ・コエーリョの作品で世界に知られ、復活。
 現在は健康のためなどの、山歩き的な存在もあるような感じ。長い休暇の獲得が必要で主婦や、学生が多いのもうなずける。今年2004年はヤコブの年に当たる。それは、6年、6年、12年などの周期で巡ってくる。その年はサンチャゴ・デ・コンポステラの大聖堂で行われる正午のミサで、Botafumeiro;ボタフメイロ(香炉)の儀式が毎日行われ圧巻。次のヤコブ年は2010年である。毎年7月25日は、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラの祭日。CAMINOゆかりの各地でも、お祭りが行われる。


CAMINO(巡礼路)について・・

□CAMINO(巡礼路)を行く人・・実に多くの人が歩く。スペイン人50%、フランス人、オランダ人、ドイツ人、カナダ人、メキシコ人、少しの日本人。
□Credential;巡礼手帳・・教会や宿で発行してもらえる。サンチャゴ・デ・コンポステラでそのすべてがチェックされる。期間は関係ない。2年にわたってもよい。ただしサンチャゴ・デ・コンポステラに到着分のみ。径路は分断されてもよい。その合計距離は、徒歩であれば100km以上、自転車であれば200km以上が必要。
□Compostela;コンポステラ・・巡礼証明書・・ラテン語でかかれ、巡礼事務所で発行。丸い筒が近くのお土産屋で売っているので、その中に納め大事に保管。
 何回も旅をし、サンチャゴ・デ・コンポステラに到着した場合は、一生で何枚にもなる。
□宿・・救護施設のRefugios(レフヒオス)や、Albergue;アルベルゲ(宿屋)など。巡礼手帳があれば泊まれる。無料から4ユーロ(約520円)などさまざま。ただしdonation(寄付)はいくらでも自由。大半がボランティアで運営。台所(什器、ガスや電熱器(4連のものなどハイテク)が付いている)、食堂、シャワー室、2段ベッドを備える。定員もあるがマットを敷いて床に寝かせる場合もあり、それを超えるとComplete!として別のアルベルゲに向かわせるようだ。パソコンも用意されている場所もあり、インターネットが可能。Hotmailなどインターネットでメールができるアドレスを持っている場合は日本とも交信が可能。Yahoo.co.jpの画面は日本語で見れる。ただし、こちらから打つ場合はアルファベットのみ。@記号はgraphicキーと@キーを併用。
□CAMINO(巡礼路)の様子・・ほとんどが土の道。石を敷き詰めた道や、アスファルトもある。現在は、旧街道となり、caminoとして使われている。牛などの通り道となっている場合も多い。また車道で分断されている箇所も多いのでcamino矢印に注意して歩く。
□CAMINOの場所・・野原の道、民家の裏道、山越えの道、国道や県道沿いの道、ワイン畑の脇の農道、牛が歩く道、橋など。車も通る橋では一方通行などの狭い橋が多い。階段も案外多い。
□CAMINOの坂・・中途半端なものではなく、どこまでも上り続ける場合も多いので、甘くみない。
□CAMINOの歩き方・・ひたすら歩く。ベンチかテーブルが用意されており、昼飯をひろげる空間も用意されている。
測定では早い人で120歩/分。一歩間隔80cmで、5.7km/時間。普通の人・・・100歩/分。一歩60cmで3.6km/時間。ガイドブックの標準・・4km/時間
□CAMINOでの水・・・水場が用意されている(最終のサンチャゴ近辺は水場がすくない)。アルベルゲ(宿)(10kmなどの距離で存在)で水の補給が可能。ペットボトルの小さいの(350ml,500ml)を手にもって歩く人も多い。リュックにはアルミ缶で1Lのものが非常用には便利。
□CAMINOからの景色・・田舎の景色が大半。0409120848.jpg ときどき町に入る。 サンチャゴ近辺では牧場が広がる。
□CAMINOでの矢印・・↑や→などの印がいたる所に。電柱や縁石に。貝のマークがついた標識。km標識。0.5kmや1km。500m間隔のCAMINO標識。0409111105.jpg

□CAMINOを歩く靴・・2cmくらい大きめの靴がよい。靴下2枚など重ねてもまだ余裕があること。むくみが生じるので、その分大きくないとかならず足にダメージ。
□サングラス・・日差しが強いため紫外線をさける工夫が必要。下を向いて歩くと、サングラスに汗が落ちるので、姿勢矯正にも役立つ。
□Greeting;挨拶・・ HOLLA(オラ)! CAMINO!  Bien CAMINO!(ボン カミノとフランス語に聞こえる)
□出会い・・20km/日〜50km/日までの行程の人がそれぞれ100mに3人の間隔で歩く感じ。追い越す場合はHolla!(オラ)といって互いに目線を交わす。しばらく会話していくことも多い。スペイン人は話好きである。1日中おしゃべり。この会話も、つらいCAMINOでは必要かも。
□出発時間・・Albergue:アルベルゲにより決められている場合もある。am4:00に出発できるものもあれば、am6:30以降というアルベルゲもある。しかしam8:00 までには出発。
□到着時間・・pm12時以降に受付けなどこれもアルベルゲによって様々。正午に1番客としてアルベルゲに入るのもよし、pm7:00にアルベルゲに入るのもよし。ただし到着が遅いと満杯になる可能性あり。自転車のCAMINOもあるので、どんどん到着してくる。順番で並ぶことも。早い到着であれば洗濯して乾かす十分な時間がある。
□食事・・アルベルゲ内では、近くの食料品店やスーパーで買ってきたものを食すことができる簡単な食堂がある。買い物・・日本のようなコンビニはスペインにはない。昔ながらのなんでも屋。トマト、バナナは目方を量る。アルベルゲの外にはバル、レストランがある場合もあり、事前に資料で調査しておく必要がある。無ければ前の町で買ったり、食べておかなければならない。
□杖・・ほとんど杖を持ち歩く。トレッキング用の杖。カミノを象徴する長いステッキは次の点で便利であった。国道を行くとき、CAMINOが歩く!ことを主張でき、車が避けてくれる、疲れたときにもたれることが出来る、ベンハーのように方角を指し示すことができる、梢に成ったりんごなどを取ることができる、深いぬかるみでは側道から落ちないようにささえとなってくれる、階段を降りる時や、坂道の下りのときに支えとなる、疲れたとき、杖をこぐようにして先に進むことができる  などなど。0409061402.jpg
□懐中電灯・・朝は8:00まで真っ暗(8,9月)。懐中電灯は必須。LEDヘッドライトが最適。(軽量、長持ち)
□リュック・・50Lくらいの大きさに、10kgくらいの荷物が限度。マットも巻いていくと重宝。道中、空き地に敷いて寝ることができる。
□ポシェット・・意外と便利。デジカメなどの小型のもろもろ(ノート、地図、磁石、豆単、ガイドブック、コイン、ペットボトルなどを入れておく。リュックを降ろさなくてもよい。) 3kgまで。
□洗濯・・手で洗うタイプがほとんど。洗剤は1袋毎別になっているものが重宝。洗濯機や脱水機、乾燥機などは期待しない。コインを入れる場合もあり。1人3ユーロなど。
□ベッド・・他人のいびきがすごいことを覚悟。耳栓か早く寝てしまうこと。シルベッサ(ビール)などのアルコールが小生の場合必須。ホテルに泊まってゆっくりする方法もある。
□沿道の果物・・PONFERRADA近辺にはぶどう畑。サンチャゴに近いガリシア地方では小粒のりんご。野いちごはいたるところに生えている。種を撒き散らすため、どんどんcaminoに増える傾向。
□トイレ・・紙がないことが多い。持参すべし。
□ガイドブック・・スペイン人は、ほとんどが「EL CAMINO DE SANTIAGO A PIE」を携帯する。Webサイトでは、http://www.caminosantiago.org/cpperegrino/peregrino.htmlが詳細な情報を提供してくれる。
(Webサイトのタイトルは”El Camino de Santiagio”。左欄の一覧から"Planos de Rula"(ルート図)をクリックすると、全体の地図が紹介されます。小生はこれをプリントアウトしたものを持ち歩きました。)
□参考書・・「星の巡礼」 パウロ・コエーリョ著 山川鉱矢+山川亜希子 訳 角川文庫
        「サンチャゴ巡礼の道」 檀 ふみ、池田宗弘、五十嵐見鳥 ほか著 新潮社

   



巡礼の日誌

9/2(thu) Madrid着
9/3(fri)(巡礼1日目) Madid Charmartin(チャーマルティン)駅 TALGO(急行電車) am8:00→Sahagun(サアグン)駅am11:30 。
Sahagun(サアグン)《362.1km》→EL BUROGO RANERO(エル・ブロゴ・ラネロ))《344.2km》 17.9km

Sahagun(サアグン)の教会で、クレデンシャル(COMPOSTELA(巡礼証明書)用に各地でスタンプをもらうための台紙)の発行をしてもらう。パソコンがおいてあったので、Yahoo.co.jpを立ち上げて、メールを数人に発信する。

pm1:00.さあ、ここからスタートだ。0409031217_1.jpg Sahagun市街の詳細な地図をもらいまずは黄色の矢印探しから始める。最初は意外と難しい。だが、慣れると、極端な曲がり角でもなければ、自然体で進んでいけばよいことに気が付く。すなわち、最初の矢印からは、次の矢印へはそのまま、真っ直ぐ進めばよいのだと。気を回しすぎて、車道の方向に向きを取らなければ、そこがたとえ、納屋の裏であったり、細い路地であったりしても、とにかく進んでいけば道は開けるものであると。またいくつかのグループが前を歩いているので、それも指標にしていけばよいのだと。真っ直ぐな車道でも、側道がついており、そこは土の道。ポプラや低い潅木が植えてあり、それも目印。潅木の葉っぱの部分が地上から1.5mくらいに揃えられているため、地面が起伏になっている箇所では、木々の葉っぱの部分もアーチ状を成して続く。リュックを背負ったまま、走ったらどのんなものかと・・。走ってもそんなにおかしくはないものである。まずは、目的地のEL BUROGO RANERO(エル・ブロゴ・ラネロ)まで、17.9kmを「ずり足走法」で走ってみる。0409031321_2.jpg 不思議なことに、前に行く人を走って追い抜いても、スタスタその人は、付けてくる。相当の速歩の人である。あとでわかったことであるが、小生のずり足走法のスピード(キロ10分位)と速歩の人の速度はほぼ同等であったことである。恐るべし。アルベルゲ(宿屋)の場所は、どこでも捜すのが少々難しい。街道に面していれば、楽であるが、面していない場合は、矢印が2方向となり、アルベルへ行くか、アルベルゲに寄らず真っ直ぐ進むかである。たいていはアルベルゲに立ち寄って、スタンプを頂戴したり、情報交換を行ったりするようである。
アルベルゲのEL BUROGO RANERO(エル・ブロゴ・ラネロ)《344.2km》 pm4:45頃到着。ボラティアの人が詰めており親切に指導してくれる。宿賃はタダであるが、donation(寄付)は自由という制度である。到着が遅かったため、最後の部屋の最後のベッドであったようで、ラッキー。台所では、黒人女性がなにやら料理を作っており、おいしそう。アルベルゲでは、だいたいフライパンや、什器が用意してあり、食材があれが誰でも料理をして、食堂で食べてよいシステムだ。バル(飲み屋)やレストランで食事をしてもよし、そこは自由である。パソコンがあったので、日本にメールを打つ。

 

9/4(sat)(巡礼2日目) EL BUROGO RANERO(エル・ブロゴ・ラネロ))《344.2km》→LEON(レオン)《306.8km》 37.4km 

早朝4:00に誰かがベッドをたたく。昨日「いっしょに行こう」などといわれ気安く返事をしていたのか。眠たい目をこすりながら起きて、前夜近くの食料店で、買っておいたバナナ、オレンジ、パン、ヨーグルト、台所においてあったコーヒーなどを口に入れる。そこには他の2人もおり、スープを電熱器で暖めていた。すぐに出発準備を整え真っ暗闇な中を出発していった。僕を起こしに来た人はトイレなどでもたついており、最初に出発したした人たちの後を追う形で、1人でスタート。外は街灯が灯っているが、村外れにさしかかると真っ暗闇。ヘッドライトをつけてCaminoのマークを捜す。ほどなく、村から次のアルベルゲの方向へと潅木が続く道にでる。またずり足走法で追いかけるが、10分しか違わないはずなのになかなか追いつけない。やっと1時間ほどして、かれらは土道のカミノ(Camno:巡礼路)ではなく、車道を速歩していた。このほうがサンダル姿の2人にはスムースに足が運べ、都合がよいらしい。この2人と歩くときは、この後も土道のCaminoと舗装道路とが並行している時は、舗装道路のほうを歩くこととなった。この2人はダニエルとマニュエルといい、同じリュック、同じサンダルを履く仲のよい兄弟である。兄のほうがネクスルの販売部長をしていると後で知る。アルベルゲの台所においってあったコーヒーはさぞかしまずかったろう と何回も言う理由がわかった。兄のほうは、映画「レオン」に出てきた俳優とそっくりで、かっこがよい。2人ともスペイン人で、RONCESVALLES(ロンセスバーリェス:スペイン側のスタート地点の一つ)《747.1km》から403kmをすでに歩き、344kmを残している。ゴールは同じなので、一緒に歩いてもよい仲間である。2人は59歳と56歳で、ともに3人の子供がある。携帯電話をもっているため、盛んに家と連絡をとっている。「いまJAPON(ハポン:日本人)と歩いている」 と言い、電話をこちらに向けるので、息子とおしゃべり。「君のお父さんの足は、鉄のように丈夫だ!」と叫んでみるが、通じたかしら。楽しい道中が2日続くことになる。スタスタ歩くこと、8時間40分 正午12:40にLeon(レオン県の首都)に到着する。0409041315.jpg まだ先へいけるはず。Leonの大聖堂:サンイシドロ教会はステンドガラスが見事であるというので、まずは見学。”荘厳なる光の洪水”とはこういうことなのか。中では結婚式を行っていた。小生はステンドグラスをスケッチ。0409041320.jpg ダニエルとマニュエルの兄弟は先に急ぐのをやめLEONのアルベルゲで宿泊の手続きをするために戻る。小生はサンイシドロ教会の外側をスケッチ。2,3日後、このスケッチから「Catedralの右側と左側で完成年度が異なる」なんて詳しい話を聞いた。帰る途中の市庁舎広場;Plaza Mayorでダニエルとマニュエルの兄弟が日当たりで、ビールを飲んでくつろいでいた。多数の観光客でごったがえす中を。アルベルゲにはpm3:00頃入り、宿泊手続きをする。これも時間的には遅かったので、ベッドは上側である。ここのアルベルゲは中庭があり、別の棟の1階にマットだけを敷いた部屋が用意されており、順次そこも人で埋まっていく。小生のほうは2階にあり、男女別であるが、最終的には食堂にも寝袋が2つ用意されており、途中抜いた人もその中で眠っていた。ASTORGA《258.5km》から逆コースで歩いてきた日本人男性と会いしばらく話す。巡礼用(peregrino=pilgrim(英語))特別メニューを置いているレストランでも偶然会い、会話を交わす。彼は以前Caminoを歩いた経験の持ち主。今回はサラマンカというASTORGAから南のスペイン一古い大学のある町からの北上してしてきての歩行らしく、CaminoをASTORGAから3日くらい逆コースを歩いてから日本に戻るのだと言う。ドイツでもライン川に沿って遡り、ローヌ川を下るという2000kmの旅をしているようだ。そこで知り合ったドイツ人は6年間で半年の長期の休暇がとれるとのこと。このようにヨーロッパでは長期の休暇をとれるので、長い旅が可能となるようである。

9/5(sun)(巡礼3日目) LEON(レオン)《306.8km》→PUENTE Y HOSPITAL DE ORBIGO(プエンテ イ オスピタル デ オルビゴ)《274.7km》 32.1km

アルベルゲ:LEON(レオン)の出発時間は午前6時30分以降。ダニエルとマニュエルの兄弟をam5:00前に起こしたものだから少々文句あり。ただしこの部屋ではいびきがすごく、食堂に寝ていた男女はいびきから解放されるべくベッドを移動したのではないか。小生もいびきには弱く、眠れない。am5:00 続々と巡礼たちが起きてくる。朝食のサービスがあり、パンやコーヒーを飲んでしばしの語らい。0409050509.jpg ダニエルとマニュエルの兄弟とam6:30出発。レオン大聖堂を回らずにSAN MARCOS経由で、Beruesga川をわたる最短ルートを取る。幾組かの巡礼と一緒になり、10人くらいの集団で、カミノを歩く。この集団の中に、後で行動をともにするMarisa;マリサがいた。すこぶる速い女性。ここからコースが2方向にわかれ、丘陵地帯と、車道沿いの2方向。Marisa達女性陣は丘陵地帯を行く。ダニエルとマニュエルの速歩グループは、車道沿いのほうを行く。サンチャゴまでの道のいたるところに生えるハーブを口したりしながら。途中 A-66号線のインターチェンジで、道を失う。西に向かうためには、とぐろを巻くインターチェンジを大きく迂回しなければならず、我々はそのままかまわず、道路上を進む。そのうちCaminoのマークが現れ、正規の道に合流。自転車が進めるCaminoは、国道沿いのことが多く、たいていは、西に向かう国道か一般道である。土道のCaminoと並行か、どこかで合流する形で絡み会いながらサンチャゴまで続く。正午近く、PUENTE Y HOSPITAL DE ORBIGO(プエンテ イ オスピタル デ オルビゴ)《274.7km》 の橋にさしかかる。0409051205.jpg 大きな祭りを行っているらしく、橋の下の河川敷では、ソーセージを焼いたり(焼いている人は目を保護するヘルメットをかぶり本格的)、ワインを飲んだり騒いでいる。5ユーロ払えば、5時まで飲み食い自由であるとか。その場合は特別の帽子をかぶり区別しているようだ。小生は足に早くも豆が出来たため、ここでリタイヤ。ダニエルとマニュエル、もうひとり途中から同行の3人は、ASTORGAまで16.2kmを歩くという。そうすると彼らは48.3kmの走行となる。彼らがいわゆる50kmペース/1日 の人たちであり、最強健のグループにあたる。小生は村営のMUNICIPALに宿をとり、軽装で群集に戻る。通りに面するホテルのベランダを借り、ビールを飲みながら、Orbigo橋のスケッチを1枚。pm5:00には、スペイン国大統領が登場するというので、ステージ前には村中の人が集まって来た。待つこと1時間、0409051701.jpg パトカーに先導された車が群集の中に入ってくる。村中の人と挨拶をしている感じ。この村出身なのかと思うほど。やっと演壇に登場。頭上にはヘリコプターの音。小生は悲しくもそれどころではない。足が痛い。シャワールームでもとにかく痛かった。アルベルゲの人に豆の治療をしてもらう。針で刺し、水をだし、消毒、絆創膏、はがれないように透明の絆創膏、そこを踏まないようにクッション材(初めて見たが、すこぶる調子がよい)など。応急手当をしてくれる。両足に。感謝!!

 

9/6(mon)(巡礼4日目) PUENTE Y HOSPITAL DE ORBIGO(プエンテ イ オスピタル デ オルビゴ)《274.7km》→ASTORGA(アストルガ)《258.5km》→RABANAL DEL CAMINO(ラバナル デ カミノ))《237.9km》 36.8km

アルベルゲを1人で6:30出発。あたりは林。真っ暗。村のメーンストリートに出ても寝静まっている。実はPUENTE Y HOSPITAL DE ORBIGO(プエンテ イ オスピタル デ オルビゴ)には、MUNICIPAL,PARROGUAL,SAN MIGUELの3軒の宿があり、小生が泊まったMUNICIPALは村営の救護施設のRefugios(レフヒオス)にあたるらしい。どうりで、ボランティアがpm8:00に引き上げていった。朝方、水が出なかったので、街道筋にある別のアルベルゲに立ち寄り、水を補給。ここだけが人の気配。ここで、Leonからしばらく一緒だったMarisa;マリサと会う。彼女も足が速く、小生の前を歩く。途中で道が2方向あるのを、小生は国道沿いを歩く。マリサとこれも後で知るDIEGO(ディエゴ)は、一緒に別の丘の道を進む。ASTORGAの町を遠望する丘で、合流。0409060906.jpg 彼らは一息をついたあと出発。小生もデジカメですばらしいASTORUGAの遠望をとる。このように写真をとっているわずかの間も彼らは10数m先を歩き、追いつくのに「ずり足走法」が必要ということになる。追いついた勢いで、そのままASTORGAまで走る。9:15 ASTORGA到着。ガウディが設計したという司教館(現在はサンティアゴ巡礼路博物館)をスケッチ。0409061006.jpg ここで、マリサとディエゴが追いつき、小生を抜かしていく。靴紐を結び直していても彼らは待たない。遅れたほうが速歩で追いつく。スケッチを終え、背後にある店で水を買う。と巡礼杖が数種類置いてあり、一番背が高い「ひょうたん」と「貝」がついた典型の杖を購入する。19.6ユーロ。9:45再出発。マリサとDIEGO(ディエゴ)を追う。300mくらい先を歩くのを発見。追いつくべく、「ずり足走法」。長い杖がじゃましてなかなか走れない。MURIAS DE RECHIVALDO村《253.8km》で追いつく。大きな杖を見て、両人 大笑い。ここから3人の旅となる。マリサはスペイン北部ビスケー湾の端に位置するBILBAO(ビルバオ)に住む。今回はビルバオから南下したcamonoとの交点、ログローニョ《610.0km》からの旅をする。すでに359kmを踏破している健脚。炎天下、木陰の休憩でこれもスペイン人のDAVID(ダビッド)が合流し、4人となる。ディエゴは無口、ダビッドは相当のおしゃべり。4回目の旅ということで、このカミノは『精神的、宗教的、愛、アミゴ(友達)・・・すべてだ(トードだ) 』 と熱っぽく語る。pm3:30 RABANAL DEL CAMINO(ラバナル デ カミノ))《237.9km》到着。ダビッドはさらに旅を続けるという。結局次の宿泊まで5kmの道を途中まで行き、折り返してきたようであり、ここで泊まったようだ。0409061520.jpg このダビッドと替わり、翌日から旅を共にするのが、強健のアドニスというGalicia;ガリシア地方の青年。
 食堂で3人の女性巡礼が英語で会話している。小生にもスープを分けてくれたりする。スケッチをして歩いているのだと言うと見せてくれという。描いた分を見せると全部覚えがある光景で、話がはずむ。メキシコの女性が自分のノートに何か書いてくれという。アルベルゲをボールペンでスケッチし、少々お話。なんと、10月12日に日本に来て、20日まで滞在するという。眼科のドクターで、日本で学会があるからという。日本を知っている巡礼も多く、日本に行ったことがあるという人に、この後何人にもあった。因みにダビッドは日本の化学会社の合弁企業で働く。

 

9/7(tue)(巡礼5日目) RABANAL DEL CAMINO(ラバナル デ カミノ)《237.9km》 →PONFERRADA(ポンフェラーダ)《205.2km》  32.7km 

RABANAL DEL CAMINO(ラバナル デル カミノ) 6:30出発。マリサと一緒に出発。そこに同じく旅支度を整えた青年が立っていた。Adonis;アドニスである。かれは、3回目のカミノ。前回は12月28日 O'CEBREIRO;オ'セブロイド峠から出発してサンチャゴまで歩いている。今回はLEONからのとのこと。このアドニスは英国に英語の勉強のため2年間留学したらしい。実際はカーペンター。コンストラクター(建築家)に近く、大理石などを使った家を建てているらしい。マリサ、アドニス、小生、ディエゴの4人で真っ暗な街道を歩く。ディエゴは少々遅れている。舗装道路を上がっていく。有名なLa Cruz de Hierro(鉄の十字架)がある1505mの高地まで、道をのぼっていく。0409070837.jpg 次のMANJARIN(マンハリン)にはQueimada;ケイマダの儀式(9/12の手記を参照)を行う名物あるじがいるアルベルゲがある。そこで、スタンプを押してもらう。0409070917.jpg 坂道をどんどん下る。EL ACEBO(エル アセボ)《221.2km》でCoffeeブレイク。0409071113.jpg am10:30。ちょうど4時間。ここからPONFERRADA(ポンフェラーダ)まで、くだりに下る。0409071229.jpg 途中、6kmほど昨年(2003年)山火事でダメージを受けた山林地帯を通過。麓の MORINASECA(モリナセカ)《213.2km》は「教会と橋」と言う典型的な風景の美しい村である。ここで、ディエゴは少々休むという。この辺りは冬場雪が積もるため、「がんぎ」のような庇を持つ家々が続く。0409071301.jpg ぶどう畑が広がり出す。PONFERRADA(ポンフェラーダ)(ビエルゾ県の首都)にpm2:30頃到着。アドニスはまだ先に行くというがいったんアルベルゲにリュックを置き、昼食をとりに行く。昼食後、宿に帰る3人を見送り、お城をスケッチ。この間、あとで知ったが、アドニスは結局このアルベルゲに投宿し、明日の長い行程に挑戦。このアルベルゲに2日間泊まっていった日本人2人が居たという話を聞く。ここで病気になり、規定では1泊限りのところ2泊していったらしい。その手記が残っていたので見た。カミノを諦めようと思ったという日記と、そこから次のページに矢印が引いてあり、それが完治し、再び旅を続けるという日記となっていた。ひょっとする追いつけるかもしれない。パソコンがあったので、日本にメールを打つ。

 

 

9/8(wed)(巡礼6日目) PONFERRADA(ポンフェラーダ)《205.2km》→VEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》 38.9km

夜中のam00:30ころから突然ドカンドカンと花火が2000発くらい上がる。とても寝ているどころではない。何か大きなお祭りが始まるという。0409080043.jpg 9/8のお祭りとは、9/8 am0:00からの24時間を指し、am0:00を待って花火が上がったという次第である。日本では考えられない。 am7:00 マリサ、アドニス、ディエゴ(結局前日追いついた)、小生の4人でスタート。驟雨。PONFERRADA(ポンフェラーダ)の大きな町を抜けるためには市内の地図が必要であったが、地図を参照せずいきなり大きな通りを真っ直ぐ歩き、道を間違える。途中ディスコがあり、朝まで踊り明かした客を多数のタクシーが待つ。マリサ、アドニス、小生の3人グループはCAMPONABAYA《195.6km》まで10kmを直行。ここで、本来のカミノが合流。すこし遅れて歩いていたディエゴはおそらく正規コースでいったであろうか。0409080907.jpg この後、会うことはなかった。我々は、4kmほど距離をセーブした分、さらに長距離に挑戦。たわわに実ったぶどう畑から赤や、紫、緑と色とりどりのぶどうを失敬して水分を取る。少量であればcaminoには許される行為ということである。

PONFERRADA(ポンフェラーダ)《205.2km》からは22.6km地点にVILLAFRANCA DEL BIERZO(ビヤフランカ デル ビエルゾ)《182.6km》がある。0409081154.jpg ここにロマネスク教会があり、免罪の門をくぐるとサンチャゴ デ コンポステラに行ったと同じ価値があるということであるが、我々は先を急ぐ。野いちごを口にほうばる。清水が滴る水場で水分補給。ここからは高速道が頭の上を走る。どのような感じかというと、高速道路が遥か頭上をカーブしながら山々を縫っていく。その直下50mほどに一般車道。カミノがその道に沿って走る。車道とカミノを隔てるのは、1mくらいの高さの防御塀。黄色く塗られ舗装されたカミノをひたすら歩く。後方からの直射日光がcamino姿を投影する。0409081240.jpg 0409081242.jpg 自転車がうなりを挙げて快適に飛ばしていく。アルベルゲがそれぞの村にあり、カミノは村道に入る。0409081303.jpg VEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》まで10kmが、こういった感じ。PEREJE(ペレッヘ)《177.8km》着 pm1:10 アルベルゲでスタンプを押してもらう。TRABADELO《173.8km》pm2:10 川を渡った車道沿いのレストランで休息。パエリアを食べる。LA PORTELA《169.2km》、AMBASMESTAS《168.1km》を経由し、VEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》(:セブレイロ峠への基地) に pm5:29 到着。0409081724.jpg pm7:00頃、頂上に城のある山をスケッチする。ドイツ人学生としばしお話。「就職はどうするの?」と尋ねると、第一条件がドイツ国内。第2条件がフランス国。理由は第2外国語がフランスだからと。彼らは、家のある場所にはこだわらない。どこへでも行くということである。さすがEUである。考えが大きい。黒い犬をつれた巡礼と同部屋。犬が水場でうまく水を飲んでいたがこの犬だったのか。朝起きても部屋の中で寝ていたのでやっとこの犬が主人とともにアルベルゲに泊まったと判明。静かな犬である。0409082157.jpg 川(rio Valcarce)を渡って散策。かやぶき屋根を展示してある広場に出る。アドニスによれば、これはケルト文化の名残りをとどめる萱葺き屋根で、O'CEBREIRO峠にも同じ形の家が並ぶという。


9/9(thu)(巡礼7日目) VEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》→O'CEBREIRO(オ・セブレイロ)《154.7km》→TRIACASTELA(トリアカステラ)《134.1km》 32.2km

am7:00出発。標高630mのVEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》から標高1300mのO'CEBREIRO(オ セブロイド)峠《154.7km》まで一気に上る。途中にガリシア(自治)州の州境。途中のLA FABA《159.5km》からは景色がよい。0409090916.jpg O'CEBREIRO(オ セブロイド)峠《154.7km》am9:55 ではなにかお祭りをしており、教会にろうそくを捧げる多くの人の列。0409090941.jpg 0409090947.jpg スタンプを押してもらう。ここから車道脇をひたすら歩く。途中で一人とぼとぼ歩く、ドイツ女性のKristina;クリスティナと会い、いっしょに歩く。手に朝ごはんの残りを大事そうにささげ、愉快なスタイル。ただし速く歩く女性。ALTO DO POIO(アルト ド ポイオ)《146.2km》が最高地点で、標高1313m。0409091140.jpg 直前の200mがつづら折れの急登の場所。そこをマラソンで駆け上がったもんだから、クリスティナが、「あんた人間 ?」といって首筋の脈を取られた。途中2人の男性ドイツ人はほんとうの競歩のように速い、駆け足で山道を走るも、どこまでも付いてくる。恐るべし。0409091253.jpg 日ごろから競歩のような”はや歩き”で健康を保ってるという。1人は今、コンピュータシステムのコンサルティングをやっており、20年ほど前にNHKの教育番組に出たというではないか。長い下り坂。0409091319.jpg 村に入ると、自動販売機が置いてあり、コインを貸しあったりしながら久々にコーラでのどを潤す。ドイツ人2人はまだ談笑。彼らを置いて、我々のグープは、山をさらに下り、TRIACASTELA(トリアカステラ)《134.1km》に pm1:50 着。驚いたことに先ほどのドイツ人がもう着いていた。近道をしたようで笑っていた。茶目っ気がある。 かなり早く着いたので、ベッド空間もわれわれで独占。洗濯機が故障していたので、手で洗う。いままでと同じ。紐に干し、昼食に村を降りる。pm3:25〜4:42まで昼食。この間驟雨。ラモンというスペイン人が昼食時いっしょになり、顔をスケッチして笑いをとる。このとき、マリサとアドニスも描いたが、あとで、時々見ては両人噴出す。応急手当室があり、マリサも豆の手当て。

Albergue;アルベルゲ:TRIACASTELA(トリアカステラ)(宿泊費4ユーロ)は今まで見た一番大きな庭をもち、ここの芝生で寝転んでいる人も多い。遅く来た巡礼には、外の大きな天蓋(テント)にマットを敷いて寝る。それがいやな人は、他のアルベルゲを紹介してもらってそちらに移動。驟雨ながらときどき晴れ渡る。この間、目の前に広がる山々の景色を連続画像として2枚描く。このアルベルゲ:TRIACASTELA(トリアカステラ)の正面のバル0409091504.jpg で2人の日本人の若いカップルと会う。ハポンか?というとそうだと言う。日本語に切り替えてしばし会話。この2人が、PONFERRADA(ポンフェラーダ)の日記の主人公であった。追いついたわけである。(彼らはPONTFERRADAからここTRIACASTELAまでの77.1kmを3日をかけ、我々は翌日に出発して、2日間であったため、ちょうどこの地で追いついたのであった。)

 

9/10(fri)(巡礼8日目) TRIACASTELA(トリアカステラ)《134.1km》→SARRIA(サリア)《115.6km》→PORTMARIN(ポルトマリン)《93.2km》 40.9km0409100750.jpg

6:30 出発。夜空に満天の星。山道の真っ暗な中を6,7人で進む。遠くにSARRIAがかすむ。大きな町のようだ。SARRIA直前のバルでコーヒーブレイクam10:14。0409101112.jpg SARRIAを出てすぐのところで、線路と並行する道があり、列車が通る。線路を越え、丘また、丘を越える。その数100くらいあろうか。全員へとへと。ついにFERREIOROS(フェレイオロス)《102.4km》でドイツ人音をあげる。そこで昼食。オムレツ風のEnsaladaを注文。Empasadaと似た名前もある。ここのアルベルゲで泊まっていくというカミーノ(巡礼)もいる。0409101252.jpg 0409101253_2.jpg 0409101319.jpg 4人はさらに10km先の、PORTMARIN(ポルトマリン)《93.2km》 へと向かう。100km地点で記念撮影。0409101329.jpg 前からも時々見えていた10cmx5cmほどのプレートに146 誰それ と書いてある。説明では今年(2004年)3月のマドリッドの鉄道爆破の犠牲者200余名の名前を1人1人書いてあり、4km〜,5kmの間隔で木に打ち付けられている ということである。丘の上にPORTMARIN(ポルトマリン)の街が見え隠れし始めてので、しめたと思い、『お先に!』 太田は走り出す。PORTMARIN(ポルトマリン)《93.2km》着pm5:20。ここで、最終的に足を痛めたようだ。無理がたたったのか?(これを書いている 9/21,25の今日も足のくるぶしが痛い。)このPORTMARIN(ポルトマリン)《93.2km》の応急手当で大変なことになった。足が痛く、くるぶしをひねると大きく痛い。とさわぐと、セントラル・メデシン(中央病院)まで行けと言う。赤十字の人に見張られるような形で強制的に病院へ。もみ手をしながら出てきたのはひげを生やした男性のドクター。左右の足をチェックした。これは大変と、左足の方だけぐるぐる巻きにテーピング。ちょうどギブスのようになる。左足全体を固めた感じ。どうも左足のくるぶし近辺に水がたまっているのをとっさに推し量ったようだ。右足も痛いというと、薬局でサポータを買えと、伝票を書いてくれる。この間アドニスがほとんど通訳してくれる。何か保険番号もアドニスのを記載したような感じ。旅行保険に入っているため請求は可能であるのに。薬局で薬をもらう。20ユーロくらい。
バルでビールを飲み、小生は、少しの時間を貰い、PORTMARIN(ポルトマリン)の街をスケッチ。ここは橋が特徴で、新旧2つある。橋の絵から、ちょうど街と反対側のなにも無い緑の箇所に昔街があり、洪水で街が壊滅したと 別のアルベルゲで教えてもらった。絵が情報を与えてくれる。そのあと、マリサ、アドニスと小生で、レストランへ。クリスティナは橋を見学に行っておりはぐれる。

 

9/11(sat)(巡礼9日目) PORTMARIN(ポルトマリン)《93.2km》→MELIDE(メリデ)《53.1km》 40.1km

6:00発。クリスティナ(Kristina)は今日はもっとゆっくり歩きたいというので、玄関に残す。(このKristinaとはもう会うことはなかった。後日、日本で受け取ったe-mailでは、この日はPALAS DE REI(パラス デ レイ)《68.1km》までの25.1kmを歩き、翌日9/12に、なんと残りの68.1kmを1日で歩き通し、SANTIAGO DE COMPOSTELAに午後10:30に到着したとのことである。その時間には、我々も大聖堂の近くのレストランに居たわけで驚きである。ビルバオ:Bilbaoの彼氏に会うために急いでいた模様。このBilbaoはマリサの家があるところで、皆がこのように何かの縁で、つながっている という感じ。!!)

真っ暗のなかを橋をわたり返して丘陵へ。前夜スケッチをしてあるので、大体の感じがつかめる。丘へあがっていく。車道にぶつかりあいながらほぼ並行して進む。丘を越えていくカミノをひたすら歩く。途中のバルでCoffee Break。0409110903.jpg 0409110916.jpg 0409111219.jpg pm12:19 PORTMARIN(ポルトマリン)のアルベルゲを出て30kmの地点で自転車の夫婦に出会う。彼らは今朝同じアルベルゲを8:30に出発。やっと出合ったと、大笑い。
MELIDE(メリデ)《53.1km》にpm2:50到着。アルベルゲでcheck In。ここのタコ料理(Pulperia)が有名ということで、専門店に駆けつける。入り口近くに名物オバチャンがタコを蒸す。0409111515.jpg 0409111516.jpg それをあげ、ハサミでチョキチョキと小気味よく切っていく。その速さといったら。お皿もタコをゆでている同じ釜につける。パプリカをふりかけオリーブオイルであえ、熱々をいただけという。ときどき、彼女もタコをいただく。ずっと奥まで細長いテーブルの列が続く。ものすごい人数がタコを食べている勘定。家族連れも多い。パン皿とタコとぶどう酒のみがテーブルに並ぶ。それだけ。ぶどう酒は素焼きの器にそそぐ。伝統だという。タコ料理のあと、街角のバルでCoffeeをすすっていると、2人の日本女性と会う。なんと、フランス国境のSAINT-JEAN-PIED-DE-PORT(サン・ジャン・ピエ・ド・ポー)《772.2km》からのサンチャゴまでの全コースを8月10日あたりから歩いているという。姉がツアーコンダクター、妹は学生。 MELIDEのアルベルゲに行く途中で地面に座って談笑している少年グループがいた。pm7:20頃、アルベルゲのある通りをスケッチしていると、その少年達が通りかかる。全員15歳ということである。外国人ということで、いろいろ話しかけてくる。スケッチの醍醐味か。小生が何歳に見えるか当てっこする。スケッチブックの表紙に思い思いに年齢を書いてもらう。「99」と書いた少年は別として、22、33とか書くので、うれしくなって頭を強く笑いながら、なでてあげる。インターネットを勉強しているというので、名刺を渡し、メールをくれといっておく。かれらの名前をカタカナで名刺に書いてあげると大いに喜ばれる。ワイワイガヤガヤ騒いでいると、先ほどの妹さんが静かに通りかかる。0409111930.jpg マリサとアドニスはレストランへ。小生はタコ料理のため食欲がいまひとつ。バルへ行き、サッカーを観戦しながら、ビールを2杯。サッカーが終わると全員引き上げていく。日本からの小魚入りアーモンドをつまむ。実はこれがVEGA DE VALCARCE(ベガ デ バルカルセ)《166.3km》でおおいに話題になった。カタカナや漢字で日本語が書いてあるのが面白いらしい。これも結構腹を膨らます。


9/12(sun)(巡礼10日目) MELIDE(メリデ)《53.1km》→MONTE DO GOZO (モンテ ド ゴーゾ)《4.4km》 48.7km

早朝am6:00頃。妹さん、台所を兼ねた食堂で食事。ヨーグルトが4個単位でないと買えないといって、1個くれる。am6:15出発。真っ暗な森を歩く。アドニスの懐中電灯は壊れた。小生のヘッドライト一つが頼り。ここで、問題発生。足元ばかり見ていて、道を間違う。明るくなってきたが、皆目道が分からないまま。さまよっていると、別のパーティーもこちらに来るではないか。磁石をみると西に向かわなければならないのに、南東を向いている。ところが向かうべき西の方角には谷があり、その丘陵に村々が見える。大きく回りこむ必要があり、引き返すことを決断。小生が先導して道を探す。あった。3kmほど手前に、土道のcaminoが車道からそれて、西に伸びていた。ちゃんと貝のCAMINOマークが。別のパーティーからもお礼をいただく。 0409120907.jpg caminoの道は土道がおおいので、乗馬の人にも会う。と、なんと日本人の妹さんが1人でテクテクと坂道を登る。これを50m前に発見したのがアドニス。すこしの横顔で、彼女とわかったらしい。さすがである。妹さんに声をかけると、姉はゆっくりなので、あとで来るということ。宿泊予定のアルベルゲを決めておき、そこで1時間も2時間も待つことがあるという。コンスタントに20kmなので、3日後にサンチャゴに着く計算。小生も2日は早く進んでいるので、3日後はサンチャゴで会えるかもしれないと話す。ARZUA(アルズア)《39.5km》am 9:53でCoffee ブレーク。ここARZUAのバル;Barのバーテンダーは女性である。恐ろしくきっぷがいい。オレンジジュースを注文すると、やにわにオレンジをポンポンと機械の上に放り込む。と、機械がそれを真っ二つに割り、瞬時にジュースをつくる。半球になった皮が下からブルブルと列をなして飛び出してくる。面白い光景である。バーテンダーはすかさずそれを手でしごき出し、ごみ箱に。コーヒーはと見ると、豆をガチャガチャと2杯分いれ、口が2つ付いたもので、2杯分を同時に抽出する。ミルクはと見ると、ボトルをその横に置き、ノズルを差し入れ、スイッチを入れる。ジュルジュルと大きい音がし、ミルクを暖めていく。つり銭はカウンターの上をすべらせる。客がサッとこれを受け止める。これらがほぼ瞬時に行われる。どこのBarにいってもこのようなリズムカルな動きである。スペイン風というか。このBarをam10:12 スタート。pm2:46にも小休止。依然足が痛い。じめじめする疼痛。0409121120.jpg 0409121121.jpg ガリシアの多雨多湿の環境で活躍する高床式穀物蔵;「オレオ」がいたるところにあるが、これををくぐるという珍しいcamino。0409121143.jpg LABACOLLA( ラバコーリァ)《10.2km》pm3:45通過。水が切れる。レストランなし。アルベルゲ無し。なにも無し。空元気を出し、カルメンを歌う。飛行場の近くの道路を作っている箇所を左折してラバコーリャ飛行場に向かう。そこで、ようやく昼食。pm4:100409121647.jpg トルティーヤ、トマト料理などを注文。ここで、本日はMONTE DO GOZO(モンテ・ド・ゴーゾ(歓喜の丘))《4.4km》のアルベルゲに泊まるも、タクシーでサンチャゴに入り、マリサの息子:ゴンサロと、これも休暇をとりカナリヤ諸島から駆けつけているフィアンセのジョイサと会うことにする。食事を一緒に という相談になった。pm5:30再出発。LABACOLLA(ラバコーリァ)《10.2km》からはカミノを通らず、ひたすら車道を、MONTE DO GOZO(モンテ・ド・ゴーゾ(歓喜の丘))《4.4km》に向かう。テレビ塔が見え、それを越し、0409121901.jpg モニュメントの丘を下がり、アルベルゲに到着。pm7:15着。本日は48.7kmとよく歩いた。巨大なアルベルゲで、800人が泊まれるという。80人毎の棟が階段状に下の方に10棟、左右に展開される。MONTE DO GOZO(モンテ・ド・ゴーゾ)からはなにも見えないので、スケッチの材料なし。しかたなく、アルベルゲからの夕日とイスに座ったアメリカの団体客2人をスケッチする。なんとこの時間がpm9:20。まだ明るいのである。人物は意外と難しい。アメリカ人の大きな頭を描いていると、「それは大きい」ということになり、「大きいほうが脳みそが多い」のだというと、こんどはアインシュタインの頭の話になり、「かれの頭は小さかったが、リンク(脳みそのひだ)が複雑に絡み合っていたのだ。」と別の男性。アメリカ人:僕のはのっぺりとしており単純だと。全員爆笑。このアメリカの団体は、O'CEBREIRO(オ・セブレイロ)《154.7km》までバスに上がり、途中途中を歩いたり、バスで移動したりして、ちょうど100kmを歩いているらしい。それですこぶる元気。
pm9:30 アルベルゲにタクシーを呼び、サンチャゴ市内に繰り出す。5kmほどだが丘を一つこえる感じ。マリサの息子:ゴンサロと宿泊のホテルで会う。フィアンセのジョイサから挨拶のキスを受ける。海鮮料理に舌鼓。この店にはあと2回入ることになる。彼らは来年に日本に来ると言う。深夜帰還。アルベルゲではまだ帰宅してない人もあり、近くのバルやレストランで騒いでいるのであろうか。



9/13(mon)(巡礼11日目) MONTE DO GOZO (モンテ ド ゴーゾ)《4.4km》→SANTIAGO DE COMPOSTELA(サンチャゴ デ コンポステラ)(目的地)《0km》 4.4km 予定より2日早く到着。
巡礼2日目〜巡礼10日目の平均歩行距離・・37.75km 全歩行距離 362.1km


am6:50出発。サンチャゴ大聖堂にam7:50到着。大聖堂の中を散策。0409130815.jpg 0409130917.jpg 0409131017.jpg
am9:10 巡礼事務所でCOMPOSTELA(巡礼証明書)をもらう。カテドラルでミサ(Botafumeiro;ボタフメイロ(香炉を焚く儀式))に出席。

12:00の正午からミサが始まる。11:50ころからすでに説教がはじまるが、大司祭など10数名がぞろぞろと隊列をくんで祭壇へ。ミサの始まりで、今日11:30までにサンチャゴに到着した巡礼の国名と人数が、スペインの場合は地方名と人数が発表される。ハポン ドーズ(日本 2人)と発表された。事務所で見かけた日本青年と小生の2人である。12:50ころ天井からつるされ高い位置にあった、直径1mもあろうかおもわれる香炉がおろされる。0409131303.jpg カテドラル中央の最も高い天井に滑車が2個付けられており、一方の滑車から伸び下りるロープの先端は5本に別れ、それぞれを5名の司祭が持つ。降ろされた香炉は、赤いマントを着た大司祭5,6人がそれを囲み、火を点す。煙がモワッと立ち昇る。パイプオルガンがフォルテシモ(ff)で奏でられ、歌も始まる。綱持ちの1人が香炉を振る。これを待って5人がロープを引く。香炉が最下部に来たとき、ロープを徐々に強く引くのだ。天井の滑車が勢いよく回る。香炉につながれた滑車も回るため、香炉はいっそう振りを大きくする。これを10数回繰り返していくいくうちに、香炉が20mもあろうかとおもわれる左右の天井(教会建築を上から見た場合、十字の文字の左右方向)につくほど大きな振りとなる。参列者は、天井を見上げる。その壮烈さといったらもう息をのむほどである。デジカメをVideoモードにして撮影をしていたが、香炉が目の前を通り過ぎるときは怖かったほどだ。次第に振りも収まり、小さい振りになった時に、1人がそれをかかえるようにしてつかみ、体を1回転半(540°)して振りを完全に押さえる。その瞬間会場から割れるような拍手が起こった。ミサの終了である。参列者は立ち上がり、外に出る。香炉の儀式は5,6分である。3日目も見たが、最初は気が付かなかったが、ミサ中もどんどん人が入ってくるため、カテドラル内の通路は人1人がやっと通れるほどで、立錐の余地がないほど人が集まっている。後ろのほうでは、カテドラルの十字の空間に並ぶ大きな柱の影でミサ全体が見えないし、ボタフメイロの香炉も全部を見渡せない。よほど時間前に来て椅子にでも座らないと無理である。巡礼者 優先ということはないので、このあたり巡礼者もかなり時間前に来てよい場所を占めなければならない。

さて、昼食後、カテドラルに併設されている3つの博物館にpm4:00から入場し、6:00まで見学。アドニスは建築関係なので、熱っぽく説明。そのうちのMUSEO DE LA CATEDRAL の屋上に出る。下のオブラドイロ広場を見下ろす。彫像のように立つ人と一緒に写真をとる人の群れが見下ろせ、さっきは、閑古鳥が鳴いていたその彫像の人は、今かなり儲かっているようだ。0409131733.jpg

 

 

 

巡礼のその後(その1)・・サンチャゴ近郊

さて、pm6:57 アドニスの父(アドニスと同じ名前。)、アドニスの妹ロサ・アンナが車で迎えに来てくれる。小生とマリサ、アドニスで、海岸周りで、アドニスの家に行く。途中、牡蠣養殖をやっている所を通る。牡蠣船の船長はアドニスの弟の親友らしく、しばらく牡蠣船の新調した機械の説明をうける。いかに牡蠣を船に積み効率よく、網をもとに戻すか を説明してくれる。母カルメン、犬クビー 猫フルケ 牛トマースが迎えてくれる。猫はニャーニャーと国際語でしゃべる。家はぶどう(ウバス)農家で、見渡す限りの農場である。丘の中腹にあり、家から見下ろす数々の家がアドニス家の所有である。りんご、ぶどうがたわたわに実り、食卓に上がる。Orujo;オリュホ(ぶどう酒の原種のようなきつい透明の45度の酒)をたっぷりと鍋にそそぎ、coffee豆を数個、レモンの皮やりんごの皮をいれ、酒に火をつけて、オリュホ自身を1/2から1/3に煮詰める。0409132223_QUEIMADA.jpg この間、砂糖をカラメルにして酒に茶色の色をつける。ケイマダ(QUEIMADA)の儀式である。この酒の完成には1〜2時間を要する。これを皆で飲む。祝杯。pm10:30 Madridに着いたであろう、家族に電話。いまから食事と言うと驚いていた。朝といい、夜といい生活習慣は日本と3時間くらいのずれがある。

9/14(tue) ガリシア地方のぶどう農家に民泊・・FENISTERA(フェニステーラ)大西洋海岸を400km車で走行。
am8:00起床。農家から下を見下ろす景色をスケッチ。

父アドニスと息子アドニス・ノイア、マリサ、小生で、本日は、FINISTERIA(フィニステリア:ガリシア語)(FISTERRA:フィステラ:スペイン語)経由で、BILBAO(ビルバオ)まで帰るマリサをサンチャゴまで送る という車の旅。

am10:19出発 このあたりでもカミノのマークがあり、サンチャゴからフィニステラまでのびるカミノや、ポルトガルからサナンチャゴまで伸びるカミノなどが存在。歩く人や自転車もまだまだ行きかう。恐るべし!。サンチャゴから西海岸のフィニステラまでは90kmあり。3日の行程として、巡礼をする人たちも多い。実際、FIN(終わり、最果て)を意味するフィニステラの地点が終点で、灯台のある崖から海に下る道に焚き火をした跡が数個残る。旅で不要になったものを燃やしたのであろうか。ファスナーなどの燃えカスがあった。フィニステラの景色をボールペンで小型のノートにざっと描く。後にスケッチブックに描き替え、色をつけた。大西洋の波と岩しぶき 鮮烈な印象。

山々の頂上には200基ほどの風力発電機が連なり、ゆったりと回る。この光景が至る所に。半端ではない。ものすごい数。水力発電に使えるような山が少ないためか。
ここでは、ラ・マンチャの男のような優雅な風車はない。
マリサとはサンチャゴのバスターミナルでお別れ。涙が出てくる。ビルバオまで、深夜バスで10時間。0409141800.jpg

アドニスと小生は帰路海岸を通過。ILLA TOXA(イラ トハ)という地に立ち寄る。超豪華なホテルがあり、ゴルフコースが隣接。サミットも開かれるという高級リゾート地。pm8:45 サンセットを見に、オブロビー半島の先端に行く。対岸のビーチへは、アドニスの家から15分 ということ。アドニスの家は、こうしためぐまれた環境にある ということである。アドニスは、これから、農繁期にぶつかるので、家のぶどう採取をこれから手伝うのであろうか。

9/15(wed) ワインセラー(ワイン製造工場)を見学。SANTIAGO DE COMPOSTELA(サン チャゴ デ コンポステラ)のホテルに宿泊

am9:30出発 ハビー(Javier:アドニスの弟)、アドニスの父、アドニス 小生で、15分ほど離れたところにある、ワインセラー(ぶどう酒製造工場)に見学にいく。ALBARINO(アルバニヨン)種のぶどうを使った白ぶどう酒を製造。ぶどう圧縮機。そこからポンプがのび、4万リットルのタンク6基、2万リットルのタンク4基、1万リットルのタンク2基のタンク群へ。ワインラベル機などをも見学。工場で働いていた青年からワインの試食。実際は、これらのタンクは現在中が空であるが、9/20の週にぶどうの刈り取りが始まり、ワイン製造がスタートする。仏ボルドーワインのヌーベル・ルージュのように11月初出荷というのをやらず、来年の7月まで醸造。

ふたたび、高速道路AP-9に乗り、サンチャゴへ。今日予約のHUSA SANTIAGO APOSTAL Hotelへ。なんと、アルベルゲ:MONTE DO GOZA の直下のホテル。このホテル前の道の延長線上6kmに空港がある。9/12にここをてくてく空港から歩いたわけである。なにかの因縁か。Webでたまたま選んだホテルなのに。ここでチェックインし、ポシェットとスケッチブックだけの身軽いスタイルとなり、サンチャゴ市内の地下駐車場へ。ここから歩いて、カテドラルに。いろいろ買い物をして、ミサ途中のカテドラルにpm12:40頃入る。立錐の余地のないほどでミサ会場は人で埋まっていた。pm1:00近所の人と抱擁しなさい。という合図で皆握手をしたり抱擁したりする。この時点で、日本人姉妹がイスに座っているのを発見。やはり、この日に間に合ったのだ。ボタフメイロ(Botafumeiro)が1:10頃から始まる。圧巻。式が終わって、しばし姉妹と話す。全行程を歩いた感激で目が輝いていた。小生は遣り残した仕事があるのに、この2人は完歩したのだ。スバラシイ。姉妹はまだコンポステラを貰っていない。今着いたばかりという。事務所は込んでいたが、並んで待つことにする。その間、小生は通りに出て、そこから眺めるカテドラルを1枚スケッチ。多数の人が通る道の真ん中でスケッチとは!もう恥じも外聞もないものだ。その間も巡礼が続々と到着している。姉妹とアドニス、小生で例の海鮮料理店に行き、数々の魚介類に舌鼓を打つ。なかでもレモンを付けて食べるマテ貝(navahha:ナバッハ、navaja(ペンナイフ)とスペルが似ている。ちょうど万年筆のように見える、細長い貝)が一番おいしい。顔を天井に向け、口を大きくあけて、貝から外した細長い身を、縦にして口に放り込む。たまらない。水やワインを飲みながら喋りあう。と、突然、カンツォーネが聞こえてきた。「帰れソレント」、「オーソレミヨ」などの有名な歌である。店の客が歌っているのだ。皆1曲ごとに拍手。と突然。ハポーン!(日本人)とその歌っている仲間の一女性がこちらに飛んでくる。0409151540.jpg 甲高い声で、ハポン、ハポンを繰り返し、握手される。そのうちアイチ、ギフ とローカルなことを言い出す。アイチバンパクという文言も飛び出す。僕も今岐阜に住むといったらさらに盛り上がる。もう抱擁する感じで迫ってくる。2005年開催の愛知万博(愛・地球博)のことをしゃべっているのだ。いつから開催されるのか、以前岐阜に住んでいた、画家である とか早口でしゃべりだす。楽しい盛り上がり。それも静まり、またカンツオーネが始まる。店のマスターが来て、『ほかの客の迷惑だから 』と制止するも、かの女性が「何を言うのよ!すばらしい歌なのに!!」なんていいながらも、その1曲を最後に引き上げていく。あとは瞬間の静けさ。こんなハプニングも旅の楽しさか。


アドニスと別れ、ふたたび、カテドラル前のオブラドイロ広場に出て、パラドール(5星の超高級国営ホテル)の出店に座り、カテドラルと、パラドールから見下ろす景色をスケッチ。



巡礼のその後(その2)・・セゴビア、バルセロナ

■9/16(thu) サンチャゴ デ コンポステラ→飛行機→電車→SEGOVIA(セゴビア) 泊
セゴビアのメインストリートを下っていくとローマ水道が見えてきた。カテドラルをいただく橙色の瓦で統一された旧市街が眼前に聳えるよう。0409161645.jpgその色調に身震いがする。すごい光景である。 0409161652.jpg水道橋を1枚スケッチし、pm6:00 家族と再会。

ディスニーランドにある白雪姫のお城のモデルになったと言われるCastleを見学。pm7:00閉館ということで、中には入れなかったが、旧市街のカテドラルをスケッチ。 pm8:24 城から見晴るかす地平線に夕日が沈む。荘厳。


■9/17(fri) BARCELONA(バルセロナ)泊
■9/18(sat) BARCELONA(バルセロナ)泊・・地中海で遊ぶ。
■9/19(sun) BARCELONA(バルセロナ)出発→成田へ


終わり。もっとスペイン語をやっておけばよかった・・・。