ヨーロッパ横断紀行

ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜  太田 宏

03・・その1−ポーランド2(ウッチ出発からグダンスク到着まで 5/26-6/10)

 

115/26()  Łodź(ウッチ)からGłowno(グウォブノ) まで】

12.  5/27() Głowno(グウォブノ)からSochaczew(ソハチェフ)Altanca(アルタンカ) まで

135/28 Altanca(アルタンカ)Sochaczew(ソハチェフ)からŻelazowa Wola(ジェラゾヴァ・ヴォラ)を経てZaborów(ザボルフ) まで】

145/29 Zaborów(ザボルフ)からWarszawa(ワルシャワ)滞在-5/30

15. 5/31() Warszawa(ワルシャワ)からKazuń Polski(カズンポルスキー)まで】

16. 6/1() Kazuń Polski(カズンポルスキー)からKamion(カミオン) Brochów (ブロフフ)まで】

17. 6/2() (tue) 2 Jun Brochów (ブロフフ)からPopłacin(ポプワチン)まで】

18. 6/3()  Popłacin(ポプワチン)からSkoki Duże(スコキ・ドジェ)まで】

19. 6/4() Skoki Duże(スコキ・ドジェ)からWłocławek(ブウォツワベク)まで】

20. 6/5()  Włocławek(ブウォツワベク)からCiechocinek(チェホチネク)まで 】

21. 6/6() Ciechocinek(チェホチネク)から トルン(Toruń)まで】

22. 6/7() Toruń(トルン)からChełmża(ヘウムジャ)まで】

23. 6/8()  Chełmża(ヘウムジャ)からGrudządz(グルジョンズ)まで】

24. 6/9() Grudządz(グルジョンズ)からKwidzyn(クフィジン)まで】

25. 6/10() Kwidzyn(クフィジン)からマルボルク城 経由Tczew(トチェフ)まで】

26. 6/11() Tczew(トチェフ)からGdańsk(グダンスク)まで】

 

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115/26()  Łodź(ウッチ)からGłowno(グウォブノ)まで】
印籠

5/23()Kamińsk(カミエンスク)で奇跡が起こった時に「庭でテントを張ってよいか?」などと翻訳機が作った文章を牧師に書き直して貰っていたのだ。教会とテントの絵を添えて。しばらく考えた文章は大体このようなものである。「私は最終目的地のヤコブが祀られているサンチャゴ・デ・コンポステラまで歩いて旅をする巡礼者です。どうか一晩教会にテントを張らせていただけないでしょうか。」なんとこれが水戸黄門の印籠のような役割をすることになろうとは。

クレデンシャル(巡礼証明書)だけでも絶大な影響力があるのに、加えてこの印籠である。

大都市ウッチを抜け出していく。14号線を北東に。道は郊外に来るに従ってそれが細くなり、ついには歩道がなくなるという何時ものパターン。雨まじりの寒い天候。イチゴ売りが店を開けている。箱売りで百個くらい入ったものが400円などと。一つ買い求めた。なかなか美味しい。

 

ウッチの朝

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(tud) 26 May 7:10

 

ウッチから30kmのグォブノ(Głowno)の教会(Kościół pw św Jakuba Apostoła:セントジェームズ使徒教会)は「Jakuba :ヤコブ」という名前が付く。Głowno(グウォブノ)では湖畔に教会付きのお墓があり今日はその近くでテントを張る予定。気温は12℃16:30 雨で寒い中びしょ濡れで教会に到着。余りの寒さに着替えも出来ず教会の中で震えていたらミサが始まった。当方は最後列に座っていたが、ここにも人が溢れだした。大きなリュックは教会の玄関に置いたままである。貴重品のみ持ち込んだ形になっているため何回かは様子を見に行く。ミサの合間にも、スーパーに買いだしに行かねばならないが、市内を長時間ほっつき歩くことは出来ない。

雨の中をすぐに戻ってこれそうな範囲で。ケバブの露店が一軒だけ店を開けていた。テイクアウト用に所望し教会に戻る。

 

17時からと18時からの2本立て。2つの礼拝が終了してから控え室に進み出た。シスターにクレダンシャルを見せると印は無いがサインなら出来ると。続いて例の文章を見せた。肩をすぼめて「私には分からないわ。牧師に聞いてみたら。」と牧師を指差す。雨の中のテントは大変そうだと思いながら文章を見せた。途端にニコニコ顔になり荷物を全部持ってついてこい。ということになった。礼拝から抜け出してシシカバブの夕食を買っていたのにも関わらず、賄い食として僧侶が用意していたスープ、ビゴス、ソーセージなどの慌ただしい夕食。bigos(ビゴス)のいい匂いがする。

皿に盛ってくれて食べよと言う。パンなどをかじりながら皆と歓談。終わってみると今度は迎賓館のような素晴らしい部屋に案内される。10畳くらいのダイニング。ソファーで寝ろという。シャワーや洗濯用の洗剤を示してくれたりと。お客様の扱いである。部屋からの庭を通して池が見える。びっくりする景観である。2のミラクル。


 

 

ベランダから池の風景()

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(wed) 26 May 20:21
夜の帳が下りようとしている。居間より。

 

教会のスケッチ・・一宿一飯のお礼にプレゼントしてきた。


 

12.5/27() Głowno(グウォブノ)からSochaczew(ソハチェフ)Altanca(アルタンカ) まで

Głowno(グウォブノ)の教会に泊めてもらった。翌日は雨。来客台帳を持ってきた。サインをしろと。プレゼントした絵も一緒にして。

 

朝の賄い食

 

Głowno(グウォブノ) zalew Mrożyczka(ムロジチュカ池)

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(wed) 27 May 6:36
Kościół pw. św.
Jakuba(ヤコブ) Apostoła(使徒)教会
を早朝出て、池の端へ。しっとりとした景観

 

Sochaczew(ソハチェフ)までは48kmもある。18kmはパスをしたい。Łowicz(ウォビチ)まではバスを利用することにした。混んできたのでリュックを胸に抱きかかえるようにし息だけは吸えるようにと。ぎゅうぎゅう詰めの小型バスであった。降りる前からGoogle Earthで現在位置確認ができあがっているで降り立てばすぐ歩きはじめる。便利なものである。さてウォビチからソハチェフへ真っ直ぐな道。能率がよいが旅の風情と言うものがない。道路わきの草道を”My caminoとして進む。

川のある風景

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(wed) 27 May 9:06

果物売り

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(wed) 27 May 9:48
街道沿いにトラクターでやってきてそのまま開店!

 

本日の宿泊予定地、「聖ローレンス・ディーコンと殉教者の教会」は川べりの丘に立つ近代様式の建物だが中世の荘園のように広大な庭を持つ。対岸からスケッチ。ここも2枚である。教会の庭にテントが張れるものと確信したからだ。

Sochaczew(ソハチェフ)の教会

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(wed) 27 May 16:26
Parafia Św. Wawrzyńca Diakona i Męczennika
聖ローレンス・ディーコンと殉教者の教区(教会)

教会の裏庭は荘園のような広がり

Sochaczew(ソハチェフ)の教会のステンドグラス

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(wed) 27 May 18:25
新しい様式の教会ですべてが斬新

 

さてミサに参列し、スタンプを貰おうと牧師や司祭がわんさか居る小部屋に進み出た。ミサは大勢の牧師を伴って行う大々的なものであった。事務を専門に行う牧師を紹介され、スタンプを貰う。

このとき例の印籠を見せたが、ここで問題が。事務棟入口の緑地を紹介される。ここにテントを張れと。道路脇である。まぁしょうがないかと。荘園のように広い裏庭があるではないかと言いたかったが施錠などややこしいシステムとなっているのであろう。印籠がyakuba系以外の教会には通じないという事実も実感。万能では無かった。教会の周りをうろついたが細かく区域が分けられ全て施錠がしてある物々しいもの。1時間ほどその場所で逡巡していると、帰り支度をした女性が駐車場から歩いてきた。「どうしたのか?」と。かくかくしかじかでこのスペースにテントを張れと言われて困っているのだと。ここで例の印籠を見せればよかったのであるが、単なる旅行者とみられたようで「それは困る。こんなところではテントは張れない。警察にでも相談に行け。」と言うではないか。この聖巡礼者に何ということを言うのかと。

 

ソハチェフ(Sochaczew)の奇跡

policeと教会の間をトボトボと逡巡しながら往復。話がややこしくなるのでpoliceには行かず教会の前の広場で休んでいた。そこへ現れたのが救世主。アルタンカに住む青年実業家。「何か困っているのですか。」「さきほど大きなリュックを担いで歩いているのを見た。」と優しい声を掛けてくれる。かくかく云々と説明。テントならわが家ではどうか。と言ってくれるがここからの距離が問題である。毎日32kmは歩いているのでそれ以上遠くなると明日の行動に影響する。聞くとこの近くと言う。それではと車に乗った次第。家に付くと3匹の犬がお出迎え。これは大変なことになった。庭でテントを張るも、夜中は放し飼いにするため危険であろうと。後で帰ってきた父親がコメントをくれる。ならば家の中へと。ここでシャワーなど浴びて家に隣接する会社の作業室で寝ることに。

まぁ、天国のような接待を受けた。3のミラクルである。先ほど描いた絵は彼にプレゼント会社は7時に始まるという。645分には全員揃っていた。勤勉な国民である。

驚く無かれ。彼はパソコンを操って様々な情報をくれることになった。これからの総てのテント場所をリストアップしろと。役場に交渉するのも一つの手であるとサジェッション。時間があれば学校に行け。英語教師を捕まえ今回の旅の内容を話してあげると皆喜ぶのではないかと。教会にあげる予定にしてあったスケッチをプレゼントして分かれた。素晴らしい出会いであった。ブレハッチと1歳上である。

 

 

135/28 Altanca(アルタンカ)Sochaczew(ソハチェフ)からŻelazowa Wola(ジェラゾヴァ・ヴォラ)を経てZaborów(ザボルフ) まで】

ソハチェフ近郊のアルタンカの家で泊まらせてもらって、近くの街道まで車で送ってもらう。Gawłow(ガブウフ)から705号に出て、Bzura川を渡り、580号に合流すれば今回の旅の楽しみの一つであったショパン(Frédéric F.Chopin(1810-1849))生誕の地Żelazowa Wola(ジェラゾヴァ・ヴォラ)が近い。

580号線は「ショパン街道」と名付けてもよいくらいに綺麗な街路樹の道が庭園まで続く。緑地は1万平米と言われる。当方の測定では東西500mx南北200mで、周りの借景も入れると広大な公園となっている。9openで無料。まず多言語によるVideoが上映される。小生一人のために英語Versionが上映された。小学生の団体の入場に伴い、ポーランド語Version突然切り替わった。少しタブレットなどいじってよそ見していたのがいけなかった。ショパンの生家は博物館として公開されているがこの時は改装中で入れなかった。右端の部屋が生誕の間であるという。

ワルシャワ時代には避暑のため度々訪れたという。庭園内の至る所でスピーカーから静かにピアノ音楽が流れていた。


公園を出て、580号を東に進む。Leszno(レシュノ)の交差点に壮大な教会があった。Parafia rzymskokatolicka Narodzenia św. Jana Chrzciciela(セントジョンザ・バプテスト)教会である。
描こうか描くまいか迷っている時に、信号を渡ろうとしている男性と目があった。何かhelpでもと申し出てくれる。

宿泊予定地に教会があるのかと聞いたり。一旦家に帰って出直すと。色々食べ物を持って来てくれた。次の街まで送ってくれたり、Zaborów(ザボルフ)の教会と掛け合ってくれてテント場を確保してくれたりと親切に対応してくれた。

釣りが趣味で、野宿用にテントが欲しいというので、軽量テント(ドームシェルター)を見せ、設営を実演したりと。和やかな雰囲気。

 

Sochaczew(ソハチェフ)から続くショパン街道(小生がそう呼ぶ)

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(thu) 28 May 8:24

Sochaczew(ソハチェフ)からŻelazowa Wola(ジェラゾヴァ・ヴォラ)まで続く 

580号線

 

Dom Urodzenia Fryderyka Chopina入口

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(thu) 28 May 8:58 

Żelazowa Wola(ジェラゾヴァ・ヴォラ)に到着。

9openまでスケッチ。右がレセプション。

Photo ショパン公園 庭園

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(thu) 28 May 9:26

庭園内。ショパン生家

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(thu) 28 May 9:34

ザボルベク(Zaborówek)の出来事

もうずいぶん前からである。街道を歩いていると朝市で買ったばかりのパンをくれたり、5分ほど時間が取れないものかと、caminoの話を聞かせてくれとバナナに菓子パンにコーラ(10年前のcamino経験者であった。) 車で何回も見たが何か困っていることはないかと。道路の反対側から声が掛かり紅茶を入れてあげるから待てと。 みんなが声を掛けてくれるようになった。リュックを背負った現代版のキリストである。今日のはザボルベクへの道を進んでいたらLeszno(レシュノ)での交差点で一人の男性が声をかけてくれた。どこまで行くのだと。家からパンなどを運んできた。その間スケッチをしたり時間を稼ぐ。

 

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(thu) 28 May 16:26 Parafia rzymskokatolicka Narodzenia św. Jana Chrzciciela

(セントジョンザバプティスト)教会

 

6km先にあるザボルフ(Zaborw)の教会ではテントを張る交渉を買って出てくれた。ミサの始まる前という絶好の時間である。フィッシィングが趣味というので世界一軽量のテントを張って見せたりと歓談。何枚も写真を撮っていった。


 

145/29 Zaborów(ザボルフ)からWarszawa(ワルシャワ)滞在-5/30

580号線はWarszawska(ワルシャワスカ)通りと名づけられている。町々を越えてワルシャワから番地が振られている。Leszno(レシュノ)などは780番などと気が遠くなるような番地である。
いよいよワルシャワに入る。まずマクドナルドがお出迎え。この店の良いところはトイレが自由に使えること。バッテリーチャージなど自由に出来る事。安い注文で何時間粘っていても閉店までは文句を言われないことである。この3条件を揃えている店はなかなか無い。大変貴重な存在であり今回の旅行でも大いに救われた店である。

旧市街地へはバルバカンから入城。Rynek Starego Miasto(旧市街市場広場)の中央にPomnik Syrenki(人魚の像)があり、皆が記念撮影している。レストランの椅子以外にもいくつかベンチがあり、そこで昼食。なにせ2日間滞在するので、リュックにある食料品は全部食べつくさなくてはもったいない。日差しがあったため、ついでに寝袋とテントも広げて乾かす。

旧市街市場広場入口

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(thu) 28 May12:02

旧市街市場広場入口のバルバカン(防塁)

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(thu) 28 May12:03

旧市街市場広場入口の子供達)

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(thu) 28 May 12:05
アイスクリーム屋

 

ワルシャワの1日・朝

旧市街(stare miasto)のど真ん中にあるホステルを抜け出して朝の散歩。一等地にあるためどこに行くのも便利。とうとうと流れるビスワ川(Wisła)を望むテラスが太陽の光を受けて輝いている。引きつけられるように進み出たその時だ。体重100kgもあろうか、背の高い男性が近づいて来た。旧市街を案内したいと。聞くとミサに参加するため進む方向に見所がいっぱいあるので案内してあげると。バルバカンの城壁まで進んだ。3つの教会の尖塔が見え城壁も見える絶好のスケッチポイント。ミサに行ってくれとせがむも絵を描く工程を見てみたいと密着。1から見られてしまうのは苦手。しかし約3分でデッサンを完成させ色づけに移る。一色塗る度に感嘆の声を上げる。うるさいと思ったがこれがこの後役立つことになる。合計3つの教会を回り一部ミサに参加したりと忙しいのであるが司祭との談笑のあとスケッチを見せることに。機嫌よくスタンプを貰えたのは言うまでもない。頭に手を置いて旅の成功をお祈りしくれる。厳かな時間が流れる。バルバカンから城壁と新市街の建物・教会群

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(sut) 30 May 6:51

歴史地区の多くは第二次世界大戦とドイツ・ロシアの侵攻の痕跡を色濃く残している。教会自身も野戦病院としての役割を果たしたなど苦境の状況や写真で歴史が方々に残っている。この男性口角泡をとばしてしゃべりまくる。熱い2時間であった。ミルクBarでの注文までつき合ってくれて分かれた。父親は医者でもうすぐ90歳になるという。後で貰ったメールでは音楽プロジュースをしているということであった。

Warszawa(ワルシャワ)旧市街市場広場その1

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(fri) 29 May 12:30
東側

 

Warszawa(ワルシャワ)旧市街市場広場その2

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(fri) 29 May 13:00
南側


 

ワルシャワ旧市街で寛ぐ

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Rynek Starego Miasta(旧市街市場広場)

5/30(sut) Warszawa(ワルシャワ)

ワルシャワの伝説と、浅草の伝説が似ていて面白い。浅草寺縁起によれば、隅田川で漁をしていた兄弟(檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり))の網に仏様が掛ったと。それが本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。

ワルシャワとそれにまつわる人魚の話の伝説はこうである。未開のヴィスワ川沿いに貧しい漁師が居た。夫婦の名前はWarsワルスとZawaシャワ。ある時彼らの網に人魚が掛った。家に連れ帰ったが川に帰して欲しいと懇願され川に戻した。それ以降だんだん人が住みつき魚がよく売れるようになった。これがワルシャワの始まりであると。

2次世界大戦で徹底的に破壊尽くされたワルシャワ市街地。しかし町並みは戦争以前に詳細な図面が残されており、レンガ一つに至るまで正確に元に戻されるなどして完全に復元された。
さて投宿しているホステルはカノニャ通りに面しているが、一方の辺はタブナ通り。トンネルがありビスワ川を望むテラスに出る。ブジョソバ通りを北に取るとカミエンネ・スホトキという幅1m位の細い通りが左手に上り方向に見える。実はこの道が廃墟のようにレンガむき出しの通路となっている。

じつはこれさえも、忠実に復元された廃墟であるというのだ。「綺麗に復元」したのではなく、「忠実に復元」したことが重要なのである。

とまぁこんな風に口角泡を飛ばして説明してくれる医者とたまたま出くわしたのだ。朝の散歩時間。氏は朝の礼拝に急ぐ身。どこで別れてもおかしくはないのであるがその後2時間くらい我々は寄り添いながら熱く語り合ったのである。長距離旅人としてではなく、道楽絵描きと地元民というカップルである。氏はとくに新市街(歴史は古く15世紀に遡るという。)を案内してくれた。ここにはキューリー夫人博物館や新市場広場やそれに面するいくつもの教会、バルバカンや勇敢に立ち向かったガールスカウトの少女像などを案内してくれた。氏は礼拝に参加できなかった代わりに全ての教会の司祭と会話ができて喜んでいた。こちらはそのおこぼれで今後の旅の安全を祈ってもらい、スタンプを頂戴できた。別れ際にBarで安い家庭料理の朝飯を食す。

タブレットを無くす

川向こうのスポーツショップ「Go」まで足を運んだ。

35Lの小さめのリュックの方のサック(雨カバー)が無かったので駅に隣接するショッピングモールに行った。そこで35-50L用のサックを見つけた。実際にリュックに被せてokを確認。4000円くらいであったがこれでどんな雨でも大丈夫になる。市内に戻り写真を撮ろうとした時だ。あろうことかタブレットが無くなっている。混んでいた2連のバスで掏られたのであろうか。はたまた「Go」のshopで落としたのであろうか。これがなければ今回の旅はゲームエンドである。「神様!」と何度心で叫んだであろうか。サックを買った現場に急行するもタブレットは無い。店員やレジの人を捕まえて泣き叫ぶ。「これが無ければ今すぐ日本に帰らなくてはならいのです!」と。泣き叫んでいるときふと置いてあった自転車のブレーキケーブルに何やら黒いものが。タブレットの蓋と本体が本のようになってぶら下がっていたのである。どうしてそんな所に?

恐らくサックを実際袋から出して被せてみたりしているとき手に持っていたタブレットを何気なく自転車のサドルの上に仮置きしたのを失念したのであろう。カミさんが「忘れ物しないように。」と別れ際叫んでいたその言葉はこういう事を意味していたのだなぁと深く反省。

 

pl.Zankowy王宮広場その1

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(fri) 29 May 16:31

 

pl.Zankowy王宮広場その2

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(fri) 29 May 19:24

広場にイスを展開しているレストランの一つで食事中。

料理が出てくるまでビールを飲みながらスケッチ。

食卓にはパレットは置けない。絵具が一応化学物質であるため「食」には相反するからである。

地べたにおいて遠慮がちにスケッチ。

パフォーマーが音楽を演奏しにやってきた。

 

 

Muzeum Fryderyka Chopan(Fryderyk Chopin Museum)ショパン博物館

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(sut) 30 May 13:54

ショパンが最後に使ったプレイエル製のピアノや作曲譜面など

ショパンファン必見の場所。色んな曲を視聴もできる。

今年は05が付く年。ショパン国際ピアノコンクールの年である。

命日の1017日を挟んで3wの激戦。ファイナルは今年は18-20日。

5台の公式ピノのうち2台が日本製。

今回の優勝候補の一人はすでに日本で演奏活動を行っている。

 

Park Łazienkowski(ワジェンキ公園)

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(sut) 30 May 15:09

旧市街市場広場から南へ5kmもある。走りに走らないと夜のオペラが聴けない!

Photo レンタル自転車

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(sut) 30 May 15:18

Veturiloという自動化された自転車レンタル。町に100箇所以上設置。


 

Warszawa Park Łazienkowski(ワジェンキ公園)Pomnik F.Chopina(ショパン像)

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(sut) 30 May 15:46

横の人物像と比べるといかに大きな銅像かということが分かる。

覆いかぶさっているのは柳の木だという。

 

 

Filharmonia Narodowa SALA KONCERTOWA 国立フィルハーモニーコンサートホール(ショパン国際ピアノコンクールの会場)

ペルリオーズの「ファウストの劫罰(こうばつ)」を夜6:00から鑑賞した。町歩き用の服から正装に着替えておいて良かった。前列10、番号12という特等席であった。おそらくキャンセルがでたため4000円と言う安さでチケットがgetできたのではないだろうか。演目はゲーテの『ファウスト』に元ずく。休憩時間をいれて3時間 合唱団60名を含み100名の構成。ソリストは計4名。なんとも豪華な夜であった。

Filharmonias Narodowa:コンサート会場

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(sut) 30 May 17:38
Berlioz-Potępienie Fausta(
ファウストの劫罰(ごうばつ)

 

コンサート終演風景

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(sut) 30 May 20:50

2時間50

 

王宮博物館の夜景

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(sut) 30 May 22:50

 

 


 

15. 5/31() Warszawa(ワルシャワ)からKazuń Polski(カズンポルスキー)まで】

Warszawa(ワルシャワ)からToruń(トルン)までのmap

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右下がワルシャワ。北西方向に229kmを6泊7日で。少し長丁場。

ワルシャワ・バルバカンを通り北向きに進む。新市街のルトラウグッダ通りを真っ直ぐ北に進み、、634,637の幹線をくぐる。E67の方向に西北に進路を折れる。あとは637に沿って更に進むが、ずっとトラムの路線が付いてくる。そのうち準高速道路仕様の7号線となって、道は沢山の車を引き連れて川の流のように進む。ちゃんと歩道が付いているので安心なるも騒々しい。Łomianki(ウォミアンキ)の町で幹線からそれ静かな町中を進む。日曜日ながらスーパーがopenしており非常に助かる。辺鄙な場所でのテント泊の場合夕食と朝飯が確実に必要になるため相当量の買い物をしなければならないからだ。
Kazuń-Nowy(
カズン・ノビ)の町に入る手前で露天商からサクランボ一箱を買う。おやつ代わりであるがその美味しいことと言ったらない。みんな大粒でジューシー。

ただここで問題発生。西に折れて575号線に入らないといけないのに、全ての分岐路でマーク。通行できないようで戦略を変えて2kmほど戻り579号線からKazuń- Polski (カズン・ポルスキ)へ進むことにした。今夜のテント場はその道沿いにも別案として予定してはいる。その場合はガソリンスタンドの隣である。しかし5km進んで次なる問題点が。肝心の店は跡形無し。更地となっていた。しようがなく、灌木の陰にテントを張る。

Warszawa(ワルシャワ)旧市街市場広場早朝の風景

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(san) 31 May 5:53

カラフルな建物が印象的。北西角に朝日を纏う

高級レストラン U Fukiera(ウ・フキエラ)は写真左から5軒目

北側の一角は補修工事中で覆いに建物の絵が緻密に描かれている。

16. 6/1() Kazuń Polski(カズンポルスキー)からKamion(カミオン) Brochów (ブロフフ)まで】

Kazuń Polski(カズンポルスキー)でのテントを畳み579号線を西に進む。森の中である。すぐに879号線に分岐し昨日の575号線に合流。ずっと田舎道なので交通は少なく静か。のどかなヴィスワ川流域である。道の側は松林が続く。昼食時、松の枝にテントや寝袋を干す。テント泊の翌日はだいたいこんな感じで晴れていれば日光浴させるのだ。風に吹かれてあっと言う間にカラカラに乾く。

今夜はテントを張る場所で失敗をした。

テント場所の条件は次の3つ。人家から離れていること。車道からも離れていること。pass道であっても人が通らないこと。これを満たしているのは森か川の堤くらいしかない。今夜の予定のKamion(カミオン)でこの3つを全て犯してテントを張ってしまったものだから大変なことになった。

今夜の予定の教会はミサが無く牧師も居ないという。犬は吠え続けるしやむなく当初の計画通り川沿いの場所に戻ることにした。2人の少女達が暇そうに小生に纏わりつく。そのうちに自転車に乗った少年たちも集まりだした。橋の下の適地を均してテントを広げた時だ。ここは増水したら危ないという。ならば堤防のさらに上にある台地ではどうかということになり皆で楽しくテント張り。

その場所はヴィスワ川に沈む夕日を拝むため地元民が集結する橋の袂。車道のすぐ脇。近所に家屋があり犬が吠える。子どもたちを巻きこんでしまったたために親も見物に来る。まるで見世物小屋のように夜が更けるまで沢山の訪問客を迎えることに。最後に来たのがPoliceだったという次第である。

驚いた。これで今回の旅も終わりである。不法に住民を挑発し静かな村の雰囲気を壊したかどで逮捕か。ポーランド語でまくし立てるポリスと英語で釈明を続ける小生。全く埒があかないのである。そのうち1人が本部(ソハチェフ:Sochaczew)と連絡を取り始めた。こちらも巡礼手帳を見せたり教会の庭にテントを張るという許可証のような印籠を翳したり必死に攻防。向こうも笑い始める。英語の話せる本部の女性と携帯を通して三角形で会話が続く。小生のタブレットにポーランド語で何やら打ち始めた。翻訳機は、「ここでは住民たちが犬が吠えると騒ぐのであなたの希望通り庭に泊まれる教会を見つけたので直ぐにテント撤収しろ。」と翻訳している。

 

撤収には10分かかる。馴れたものながら忘れ物がないかヘッドランプで再確認。南に6kmほど拉致された勘定。これだけで大いなる損失である。パトカーで着いた先はとある教会。人影は無い。真っ暗ながらライトアップしていて見事な教会。policeは、守人であろうか連絡を更に取っていた。戻ってきてここで寝ろと庭の芝生を指差す。別れ際「ショパン、ショパン」とひっきりなしに叫ぶ。

思い出した。「ブロフフ:Brochów 」であるソハチェフ:Sochaczew から東6kmにあるŻelazowa Wola(ジェラゾヴァ ヴォラ)で生まれたショパン(1810.3.11849.10.17)が生後6ケ月の時(1810.9.23)洗礼を受けたブロフフの教会であったとは!何と恵まれた拉致であったことよ。世の中にこれほど気の利いた配慮があっただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17. 6/2() (tue) 2 Jun Brochów (ブロフフ)からPopłacin(ポプワチン)まで】

翌朝兎に角元のKamionに戻らなければならいのだ。バスがないか調べてみたがない。6kmを歩いて戻るかここは賭けである。ダメ元と思いながらGoogle-Mailを覗いてみる。ソハチェフの郊外アルタンカ(Altanka)に住む実業家からメールが届いていた。いくつかのメディアが小生の旅に興味を持っていると。その人達に会って貰えるかと。

早速返事を書いた。今回の顛末を含めて。

 

4:56  Brochów (ブロフフ)の教会

Brochów (ブロフフ)の教会

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(tud) 2 Jun 6:27 

ショパンが洗礼を受けた教会。証明書などが展示されていた。

開き直って教会をスケッチしていたら驚くなかれその本人が車で現れた。後はロスした時間分先に歩を進めてくれたのは言うまでもない。

もう彼は今回の旅で「神」なる存在である。

明日はWłocławek(ブウォツワベク)で市長の報道官から最初のインタビューが待ち構える。どんな展開になるであろうか。テントに替わって寝る場所も当局で確保されようとしている。恵まれすぎているであろうか。ソハチェフから助け舟があり、もとの575街道に戻してくれた。そこからまた歩きに歩いて更なるテント場へ。森の中の良い場所を見つけた。

木の教会

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(tud) 2 Jun 14:15

8:32 第二次世界大戦の激戦地

 

8:34 ビスワ川の右岸から

 

8:39 イチゴ農園 遠くではウクライナからの出稼ぎがイチゴを摘む


 

18. 6/3()  Popłacin(ポプワチン)からSkoki Duże(スコキ・ドジェ)まで】

6月に入ってポーランドは夏のような陽気。今までは15℃くらいと肌寒く休憩時は何かを羽織らなければ寒かったのに、いきなり30℃となった。強烈な太陽が照りつける。しかしポプラの木々がざわざわとうるさいほどの強風が吹き空気は乾燥して汗がすぐ乾いてしまうのは嬉しい。

 

ヴィスワ川を下流方向に進むとリゾート風景が展開される。国立公園も近く、ワルシャワからのボート遊びに訪れる場所として人気のエリアである。Skoki Duże(スコキ・ドジェ)のホテルで休養。

 

9:00

 

17:57 川べりにあるホテルで寛ぐ

 

19:46 夏の空が輝く

 

 

ポーランド徒然
あなたはヴェトナム人?

コンビニで買い物をしている時だ。後ろで囁き声がする。さもありなん。真っ黒な顔をしているからであろうか。最近はヴェトナム人に間違われるようになった。聞けばヴェトナムとポーランドとは絆が深いという。ヴェトナム戦争の時地下活動を学ぶため沢山の人がポーランドに勉強に来たというのだ。市民もその事を覚えているようだ。

ポーランドにはガラスはいない。黒い鳥ながら首の部分が灰色の鳥が至る所にいる。彼らは常に「ターク、ターク」と鳴く。ポーランド語でtaktak(はい。yes)と鳴く。Kuropatwaという。雀よりも多いほどだ。トンビはまだ見かけない。

豊さ

まだ570kmしか歩いてないがポーランドから見た日本は何か貧しく映るのである。こちらは緑豊かで道も側道も広々としていて、家がその奥に有るのだ。少なくとも相模原の自宅から駅までの景観にあるようなせせこましい家並みは無い。ビスワ川沿岸の地域は特にリゾート地域のような景観。小学校を見て驚いた。ビルディングという建造物ではない。一般民家と大して変わらない建造物。皆親に連れられたりしながら8時には集まってくる。13才まではスクールバスが各自の家前まで送迎を行う。そういったバスから皆が手を振る。何か情報が伝わっているのであろうか。熱狂的である。

どこかトイレはないのですか?と聞くと皆肩をすぼめて「無い」という。ガソリンスタンド以外はトイレは無い。彼らは膀胱がデカいのである。日本のように競ってトイレに駆け込む風景は無い。さて水場であるがこれも皆無である。スーパーで水を買うかホテルで蛇口から貯め置いた水を飲む以外は無いと思って間違いは無い。彼らは余り水を飲まないのか1日一回なのか知らないがトイレと水の関係で論文が書けそうである。この水であるがペットボトルに飛びついて失敗した。その種類たるや膨大。ガス入り、ガス無し、味付き、味無し・・・。10種類くらいある上、500mL,1L,1.47Lなどと大きさがある。コンビニなどでは全て口で言って出してもらう。

ボーダーミネラルナなというミネラル水は「Cisowianka」が良いという。

 

コンビニ

テントウ虫マークの「Biedronka」が国内最大規模 品質がよく安いが、田舎には無い。
art.spożywcze 」「Gama」「Metto」「abc 」など。Sklep(shop)という小さな店は五万と。ただ5kmに一軒などと住民の数や交通量に依存。

 

悼む人

畑にポツンと立つ十字架。花が活けてあり、蝋燭が入った壷のような形をしたガラスの瓶。静かにお祈りをする。生前誰を愛し誰に愛されたかなど考えながら。映画「悼む人」を地でいっている。実はスタスタ歩くよりも少し休みをとるきっかけとなっている。恐らくこれを皆が見ているのであろう。巡礼者として小生を見てくれているようだ。

 

 

川の風景

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(wed) 3 Jun 10:44

Nowy Duninów(ノビ・ドニヌフ)に小さなportがあった。

 

19. 6/4() Skoki Duże(スコキ・ドジェ)からWłocławek(ブウォツワベク)まで】

小生の最初のインタビューアーはブウォツワベク市長報道官と市営マリーナのスポーツマネージャーの2人の女性職員である。 Włocławek(ブウォツワベク) roundaboutの交差点で待つ約束をしていた。ビスワ川(Wisła) 川沿いのリーゾート地スコキ・ドジェ(Skoki Duże)からウォビッチの中心街は28kmの距離にありながら指定の交差点は手前4km24kmのポイント。相当早く着いてしまった。更に歩いていると親子が乗った車が止まった。大聖堂がある場所まで連れて行ってあげるよ との優しい誘いに乗った。メールアドレスの交換をしながら別れる。この親子黒人?とおぼしき小生を記念撮影することに神経を集中させている。結局最初の交差点に徒歩で戻ったがカンカン照りの太陽の下相当身体が参った。電話をすれば良かったが繋がる自信が無かったのだ。ポーランド国内であれば(+48)を付けなくても繋がる筈。

今後行く先々の町で、放送・新聞・市役所関連の人達が小生の旅に興味を持ってくれインタビューや接待を受けることに。これはソハチェフの青年実業家が行動予定の全ての町に情報を流したことによる。氏の人脈によるところが大きい。

 

食事や市内案内など4,5時間は付き合ってくれた。この日はCorpus Christi Day(コーパスクリスティの日)でポーランドはお休み。金曜日とひっかけて休みをとるらしくこの木〜日の4日はどの観光地も満員であった。市が管理するマリーナに宿を取らせてくれた。感謝である。

ビスワ川のダムの下流にあるマリーナはまさに市の中心的スポット。この休日に沢山の人が集う。
インタビューは食事と市内散策の間で行われた。スケッチも大聖堂などを写真を撮ったりと。驚いたのはこのマリーナから見るヴィスワ川に沈む夕陽の見事さであった。休日の64(木曜日)を挟んで数日の休暇を取る人が多いらしくこのマリーナも夜遅いまで人が行き交っていた。

インタビューのお礼はマリーナに宿泊というサービスであった。テント泊の予定が救われた。

チェホチネクの一つ前、ブウォツワベクで。

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市職員とカテドラル前。すでに黒ん坊。

Tシャツもプレゼントされた。

ヴォツァベク市のマリーナから望む夕日

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I am now Włocławek.It's sunset.

Zachód słońca widziany z Marina

Włocławek(ブウォツワベク)の教会

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(thu) 4 Jun 12:49
 

Katedra pw. Wniebowzięcia NMP(Najświętsei Maryi Panny) 聖マリア・アサンプション 大聖堂
壮大なカテドラルであった。非常に古い教会もあり隣接している。

Włocławek(ブウォツワベク)市の中心である。

 

Włocławek(ブウォツワベク) マリナーからの夕日

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(thu) 4 Jun 20:51

 


 

20. 6/5()  Włocławek(ブウォツワベク)からCiechocinek(チェホチネク)まで 】

Włocławek(ブウォツワベク)からトルン(Toruń)までの交通は高速のA1,国道の91,田舎道と3つのルートがある。ヴィスワ川と91号線に挟まれた地域は複雑な「田舎道」となっており一つとして真っ直ぐな道はない。Ciechocinek(チェホチネク)の温泉施設を十分堪能するためには歩行の時間を稼ぎたい。道に迷っている暇はない。この理由で91号線を主な歩行ルートと決めブウォツワベクのマリーナーを出発。

田舎道は川に沿った底部にある。一方91号腺は丘の上をほぼ真っ直ぐに快適に進む道。ただしこれも歩道は途中までで、ほとん高速道路仕様の道に変化していく。森の中を直線で通したような能率のよい道であるが危険が伴う。まぁ8時間の辛抱である。と言ってもよくぞ頑張ったものであるが、田舎道であればもっと時間がかかった筈である。草道は2m位の幅広い道であった。

 

Ciechocinek(チェホチネク)へは91号からそれて2kmほど進み市内へ。6/4〜7と木金土日の4日間の休日を楽しむ観光客や、湯治で長く滞在している人が多いのか、中心街はものすごい人込みである。鉱泉が湧き出し、噴水や霧にして町全体に漂うようにしている。外を歩くだけでリラクゼーションの効果があろうというものである。

16:44

 

17:21

17:24

 

タワー状に積み上げた藁の上からヨードを含んだ鉱泉を流すため、日陰の直下は非常に涼しい。その塔は全長2kmほど。壮大な一大建造物である。ヨー化ナトリュームが染み込んだ冷泉を10mの高さからポトリポトリ落として冷気を発生させる装置が3基。合計2km。日陰側を歩いてみた。
地元の人に「Jesteś zdrowy zawsze skąpane w parze z jodkiem Natoryumu.

と聞いてみた。(あなたは何時もヨー化ナトリュームの蒸気を浴びて健康ですね。)

不思議な町もあったものだ。

 

ポーランドの温泉保養地チェホチネクで寛いでいる。

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合計2kmのヨー化ナトリューム蒸発気流発生装置の脇を

深呼吸しながら歩くというのが小生の流儀。

ちらの人は普通の呼吸です。

毎日地域全域で普通の呼吸をしているからでしょうか。

Ciechocinek(チェホチネク)

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(fri) 5 Jun 17:46 
タワー状に積み上げた藁の上からヨードを含んだ鉱泉を流す。
鉱泉は、ナトリウム、塩化物、臭化物、ヨウ化物、含鉄、ホウ素を含み、
医療治癒や吸引療法などで健康回復の効果

 

 

Ciechocinek(チェホチネク)での食事

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(fri) 5 Jun 19:18
テーブルの向こうに温泉施設が。

21. 6/6() Ciechocinek(チェホチネク)から トルン(Toruń)まで】

どうも容貌がすごいことになっているようだ。ショーウイドウで映して見ると、脳科学者・茂木健一郎の髪型+小澤征爾の髪型+ラモスの顔をミックスしたような風貌にサングラス。皆が振り返る筈である。散髪は1週間後、Sopot(ソポ)で行くように店まで決めてあるのだ。それまで少しの辛抱。

 

自転車用の道をトルンに進むと20kmという看板がでていた。大回りのルートであるので、途中まではその自転車道を進むことにした。快適な田舎道であった。途中から国道91号の草道やトルン市内までの近道などを取る。Google Mapにて歩行の最短ルートを調べると、なんと線路を跨いでいくルートを紹介してくれる。こんなこと有り?しかしどうも足跡が付いているため地元の人の生活道路にでもなっているのであろう。物騒なルートである。91号という大動脈が途中工事中ということもあり、四苦八苦しながらトルンの手前まで来た。

ここではニセアカシアの街路樹が出迎えてくれていた。白い花を咲かせ今が盛りである。

 

今日66日は殊の外暑かった。体感温度は35℃-40℃。トルンの旧市街のど真ん中のインフォメイションセンターにいるS氏を訪ねて16時までに会わなくては行けないというのに。部屋にシャワーが無いホテル「コペルニクス」よ! もう時間がないので洗面台を使っての不自由な洗髪。ギリギリの15:55 S氏と会えた。その後は怒濤のような市街観光とYakubaヤコブ教会でのスタンプ印の受理と。

そうここは天文学者のコペルニクスの生まれ故郷。1473.2.19 市中心の裕福な商人の家に生まれた彼は学問のためにクラクフに移っている。

ヴィスワ川に渡されたJózefa Połsudskiego(ヨゼフ・ピウスツキ)(1kmくらいの長い橋)より旧市街地を眺望したのが下記2枚のスケッチ。夕日にシルエットとなる情景は格別。トルン旧市街はポーランド7景の一つ。

ピエルニク(ジンジャークッキー)でも有名。

 

 

Photo:Józefa Piłsudskiego ヨセフ・ヒウアウツキ橋

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(thu) 5 Jun 12:57

長さは優に1km

 

トルン(Toruń)眺望その1

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(fri) 6 Jun 13:57

 

トルン(Toruń)眺望その2

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(fri) 6 Jun 14:00

 


 

トルン(Toruń)・ビスワ川

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(fri) 6 Jun 14:27

画面の向こうが北側。バルト海まで北上する。



ポーランド徒然

国土

ポーランドの国名の「ポルスカ」は野原を意味する「ポーレ」 が語源。なるほど縦横に走る道以外は緑豊かな野原である。何億年か前は海底にあった国土。
保養地の多くがナトリュームに関連するのは海底の塩分に依存する。
クラクフ近郊のヴイエリチカ岩塩鉱はもともと海底に蓄積された塩を掘り進んだものである。
褐色やクリーム色をした土はその大半が砂地である。畑地も住宅街も道路も地下は砂地が基本である。

この3週間で建物以外で階段があった記憶はないほどだ。少しの起伏以外は真平ら。

地震はここ数1000年無いという。(2014.12M3レベルの地震が西部ポルコビツェで起こっている。が中部での話であろうか。)坂道も地震も無い国。日本からすれば天国のような国である。

レンガ造りで十分な家。男性はコツコツと田舎にレンガをつむ。完成したとき家族が来てくれるかどうか不安を抱きながらコツコツと。作りかけの家をよく目にする。


地球の歩き方
今回の小生の歩き方を紹介しよう。

毎日平均32kmの歩行。テント泊の場合は朝が早い。

5:00-7:00 最初の8km8:00-9:30 休憩。軽い食事

8:30-10:30 next 8km10:30-11:30 休憩。昼食

1:30-13:30 next 8km13:30-14:30 休憩。軽い食事とメールチェックなど。

14:30-16:30 next 8km。到着。

ホテル出発は小朝食提供時間によって1,2時間シフト。

歩行時速15km。休憩時間を入れた平均時速は2.8km

右足だけのカウントで65100m。これを10回繰り返し1km(15)を計測。これを8回で8km。ただ調子の良い時は65のカウントで120mいっているときがあるようである。到着が思いの外早かったりと。

休憩時に完全に靴をリリース。足を自由にしてあげる。と言うより足の方が悲鳴を上げ始めるので休憩タイムとしてあげるのである。Camino道でもこのようにすると足の負担が減ったのではと思う。沢山の巡礼者がいるとそうゆっくりもできないのであるが。今は完全に1人であるので気ままなものである。マットを敷いて寝るようにもしている。

スケッチをしたり、看板を訳したり、教会を訪れれたり、写真を撮ったりとやることは山ほどある。

 



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明日からのGdańskまでの行程はS氏に聞くと森のない地域なので大聖堂がある町を繋いで行ったらとToruń → Chełmża→Grudziądz→Kwidzyn→(train)→Malbork→(train)→Tczew(hotel)→Gdańsk  

さてどうなるか。教会によってはテントの申し入れはおろか印入手も気難しい教会があるから。当初予定通り3連泊テントか、はたまた今回変更の成功確率僅かという厳しい環境が待ち受けている。

真北へ170kmの過酷な旅が始まろうとしているとき。

 

トルン・・世界遺産の町。およそ1,000棟の赤レンガの建物がある中世都市の佇まいが残る町。ミコワイ・コペルニクス(1473-1543)の生まれ故郷。

土曜日とて、また祝日の木曜に続いているため観光客で溢れかえっている。ピサの斜塔のように傾いた塔が有名。スケッチしようとして諦めた。絵では歪んだ形状なんていつでも描けるからである。

Rynek Noworniejski広場では21:00から野外コンサートが開かれる。

 

 

Kościół św. Jakuba(ヤコブ)教会

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(fri) 6 Jun 18:23

ミサに参列。

ここも終了間際に、教会の外を一周する。

日が祈りの世界。頭が下がる。

ペルニクス像

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(fri) 6 Jun 15:15

彼の天動説の書は19世紀まで禁書であった。

若い時クラクフに行って勉強している。

トルン(Toruń)・町並みその1

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(fri) 6 Jun 16:16

どの通りも素晴らしい。

 

トルン(Toruń)・町並みその2

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(fri) 6 Jun 18:00

トンネルを越すとヴィスワ川

 


 

22. 6/7() Toruń(トルン)からChełmża(ヘウムジャ)まで】

 

06.Toruń(トルン)→Gdańsk(グダンスク) map

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新案194kmは赤。ヴィスワ川の東側を北向きに。

旧案172kmはピンク。

トルン市の出先機関であるインフォメーションセンターにいる男性と待ち合わせた。オフィスは市の中心地:Rynek Staromiejski(旧市街広場)に面している。オフィスは16:00までということでホテルから走りに走って漸く滑り込んだ。玄関先で首を長くして待っていてくれたのだ。

そこでトルン市の観光mapを貰うこと以外に重要な案件があったのだ。Gdańsk(グダンスク)までの170kmのうちTczew(トチェフ)までの130kmを、ヴィスワ川の左岸(西側)を行く辺鄙なコースについて。テント場所などを相談。

氏曰く。Krusin(クルシン)→Wielki Zajaczkawo(ビエルキエ・ザヨンチョコボ)Nicponia(ニツポニャ)の途中の3泊よりも、教会を巡る案はどうかと。 6/7() Chełmża(ヘウムジャ)6/8() Grudządz(グルジョンズ)6/9() Kwidzyn(クフィジン)の著名な都市を巡るべきだと言う。主にビスワ川の右岸(東側)を通るルートの提示である。

もともと今回の旅のオプションとしてTczewトチェフ−Malbork(マルボルク)のバスでの往復を考えていたので、新しい案では、Kwidzyn(クフィジン)から一筆書きで廻れ都合がよい。原案では河川敷の風景が魅力的ということで選んでいるがテント場所が見つからないという不安である。森がないため隠れ場所が探せず苦労する筈であった。

コース変更という初めての試練である。ホテルに帰ってじっくり作戦を練らなければならない。手持ちのmapには無いため行程表を作り直さなければならない。ただChełmża(ヘウムジャ)Grudządz(グルジョンズ)2つは原案でも通過pointであるため最初の部分はそのまま使えるという利点はある。

 

Toruń(トルン)→36km→Krusin(クルシン)→36km→Wielki Zajaczkawo(ビエルキエ・ザヨンチョコボ)→33km→Nicponia(ニツポニャ)→35km→Tczew(トチェフ)→34km→Gdańsk(グダンスク)172km(45日 平均34km)の原案に対し、新しい案では次のようになり、負荷が平準化されておらずいびつ。まぁそこは交通機関に頼るしかないだろう。

 

Toruń(トルン)→24km→Chełmża(ヘウムジャ)→38km→ Grudządz(グルジョンズ)→33km→ Kwidzyn(クフィジン)→42km→Malbork(マルボルク)→23km→Tczew(トチェフ)→34km→Gdańsk(グダンスク)194km (45日 平均39km)

というわけで本日は24km先のChełmża(ヘウムジャ)にまずは出発。距離が短い分、あとあと負担が増えるのが一抹の不安材料であるが。

 

Toruń(トルン)郊外

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(sun) 7 Jun 9:33

 

Photo:Chełmża(ヘウムジャ)からの電車

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(sun) 7 Jun 10:06
ローカル線であるが都市間の重要な足となっている。

Bazylika konkatedralna Świętej Trójcy(ヘウムジャ大聖堂:三位一体の大聖堂)に到着。

Chełmża(ヘウムジャ) (人口4)での展開

Chełmża(ヘウムジャ)はToruń から21kmしか離れていない町なのに3つも教会がある。尖塔が3連の立派な教会が湖(ヘウムジンスキエ湖(Chełmżynskie )を見下ろすなだらかな丘陵の上に建っている。教会到着は14時。相当早いが隣接する事務棟を訪ねた。女性が出てきたので事情を説明し巡礼手帳と例の印籠(テント張りのお願い状)を見せた。暫くするとニコニコ顔で出てきて小生の小さい方のリュックを持ち上げ付いて来いと目くばせ。どんどんと湖畔の方に降りていく。湖畔の一角をテント場として案内された。後ろの方から若い僧侶も追いかけてくる。テントを設営したりしていると外で賑やかな音がした。ヌードルが入ったスープと肉やソーセージにマッシュポテトが盛られたお皿それにジュースのコップがお盆に載せられ脇のテーブルに置かれた。食せよと言う。

サイン帳の厚いbookにもサインしろと。1ページを使ってよいというので早速教会の尖塔部分のスケッチ画を添えてみた。皆喜んで見ていた。楽しい瞬間。小雨の中のテント泊ながら湖を眺めながら暮らせるこの喜びは何者にも変えられない。

 

何かこの接待にお礼をしなければならない。雨が止んだ合間を縫って大きめの画用紙に100m離れていても画用紙に納めるのが苦労するほどの壮大な教会をスケッチ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chełmża(ヘウムジャ)大聖堂

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(sun) 7 Jun 13:57

Bazylika konkatedralna Świętej Trójcy

赤い屋根と3段の尖塔が印象的。

ミサが始まろうとする時間であったため先ほどの僧侶が呼びに来た。彼が司祭室に勢揃いしていた牧師達や司祭、牧童全員に小生を紹介。ミサが始まった。もう教会内は人・人で埋まっている。前列は少年少女達の席になっているようであった。彼が僕を貴賓席に押し出す。ここで全員の注目を浴びることに。あとは近くで跪いたりする白衣の童子と立ったり座ったりするタイミングを合わせ、一緒に歌う振り。1時間15分にも及ぶミサ。

ミサの後 子供達に囲まれて

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(sun) 7 Jun 19:10

牧師はこのように若い。


終わってからはもうお祭りである。童子からサインを求められたり、写真を撮られたりと。夕食は牧師たちが次から次に食堂に集まり食べ始める。ここで次なる展開が。

 

夕食後の記念撮影

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(sun) 7 Jun 19:44

幸せなポーランドの始まりであった。

 

明日の予定を聞くので午前6時出発で35km先のGrudządz( グルジョンズラ)に向かいたい 出来たらテントを張れるような教会を紹介してもらえないだろうかと。牧師の1人が厚い教会のアドレス帳を持ってきて電話をかけ始めた。旧市街に近いある教会が良かろうにということで電話でokを確認。あとで知ったがそこの牧師はこの町(ヘウムジャ)の出身でトルンで牧師となったまだ若い人であった。

 

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ヘウムジンスキエ湖の朝

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(mon) 8 Jun 5:00

湖畔の朝。

気持ちがよい。

23. 6/8()  Chełmża(ヘウムジャ)からGrudządz(グルジョンズ)まで】

田舎道

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Grudządz (グルジョンズ)への幹線道路55号線 までの景色。

5時間歩いても変わらない!

ヘウムジャ大聖堂の牧師たちが夕食時に、次の宿泊地グルジョンズにある教会を調べてくれた。新市街地にあるローマカトリック系の教会に電話。その牧師を尋ねろと紙に住所と名前を書いてくれていた。今日はこの方を訪ねて行かねばならぬ。距離は遠い。道は田舎道。麦畑やトウモロコシ畑が続く。わずかな起伏。道は複雑であるが、測定しながらの歩行ではほとんど間違わない。

3時間歩いても変わらない景色に参ってしまう。一軒も雑貨屋(sklep)が無い。ヘウムジャで持たせてくれた昼食が役に立っている。


Grudządz (
グルジョンズ)(人口1.2)で。

予定を変更した第2の都市グルジョンズ。このような素晴らしい古都を見たことがない。若いマーシュー牧師がミサの後、車で市内案内をしてくれた。奇跡的に戦争で破壊されずに残った町であるという。17世紀建造の古い教会や城壁、ヴィスワ川を望むテラス、城壁のようにずらっと聳える6,7階の建物の連なり。鳥肌がたつ光景である。一日を観光に当ててもよいくらいの都市であった。

さてこの教会に到着する前に物語がある。

Grudządz (グルジョンズ)Wniebowzięcia Najświętszej Maryi Panny 教会の牧師に会うためには35kmの行程を急がなければならない。市内に入ってからタブレットの調子がおかしく教会が検索できないのだ。道路の右側にあったバス停にいる若い青年2人がいた。一人は自転車である。横断して彼らに会い救いを求めたのだ。紙切れに書いたアドレスを見せた。ラプチエゴ(Rapuchiego)通りのバス停で降りればよいと青年たちが19番バスを教えてくれる。教えてくれるだけでなく教会まで付いて来る。自転車もそのままバスに載せられるようになった低床のバス。バス停に着くと自転車の方の妹が迎えに来ていた。携帯で連絡したのであろう。変な日本人がいるとでも。後はワイワイ言いながら教会と牧師を探し出してくれる。親切な若者達であった。調子の悪かったタブレットを見てもらうために表記を英語versionにしたらチェックしてくれた。これは後で分かったことであるがデータ容量の1GBを越えていたた遅くなっていたことが原因であった。新しい教会で「ブレバリア」という牧師用の住居と一体となっている。2階の3部屋を使ってもよい。

ぎっしりと食材やサンドイッチは全部客人のものであるから自由にという。乾燥機の付いた洗濯機が2台も。要するに普段は僧侶が家事をするための空間が当てがわれたのだ。感謝感謝である。

牧師は少年達の教育係もやっているので礼拝の後小一時間を待って、旧市街を案内してくれた。

ある教会では大勢の信者が静かにお祈りをしている。心を打たれるほど敬虔な時間が流れる。驚愕の旧市街。こんな町があったとは!

Grudządz(グルジョンズ)へ向けて

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(tud) 9 Jun 9:21

赤い花が美しい。

道路際にこういう花が彩りをそえるが、これは畑一面が赤い花で覆われていた。

Photo:Grudządz(グルジョンズ)への田舎道

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(tud) 9 Jun 12:17

 

Grudządz(グルジョンズ)への麦畑

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(tud) 9 Jun 12:27

今回の旅はこの麦の成長を追いかけての旅となった。

7月には収穫期を迎える。


 

 

Grudządz(グルジョンズ)の旧市街 ヴィスワ川から眺望

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(mon) 8 Jun 19:55

 

Photp:Grudządz(グルジョンズ)の旧市街

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トンネルと坂道

この町は1週間いてもよいほど見どころが多い。

 

Photp:Grudządz(グルジョンズ)の旧市街

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(tud) 9 Jun 19:57

上のスケッチの街並みの延長線上。壁となって河畔に連なる

 

 

24. 6/9() Grudządz(グルジョンズ)からKwidzyn(クフィジン)まで】

Miracle

さて驚くべき展開となってきた。グダンクスに明日夕刻到着すると819kmも歩いてきたことになる真っ黒な顔の男が驚愕に値するように映るからであろうか。はたまた教会の絵を描き続けてきたため衆目の認知度が格段に上がってきたためであろうか。巡礼手帳に押された印に格式の高い教会のものが含まれるからであろうか。ついに市長が登場してきた。

 

Kwidzyn(クフィジン)(人口4)

予定を変更した第3の都市でついに市長の名前が出てきた。

グルジョンズからクフィジンまでは35km。歩きなれている距離とは言え半端ではない。近道と思しき15kmもある森を抜けるのは自信がない。Google Earthで下調べをしていない新ルートである。沿道では、中学生や小学生の通学時間などと重なりバス停では全員がこっちをみる。挨拶を交わしながらも先を急ぐ。その危険な事。道幅に余裕のない上太い街路樹が道ぎりぎりに立っている。その部分は嫌でも舗道を歩かねばならない。

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今回はルート変更で、急遽国道を通るしかなかったが、

実は10kmに及ぶ森がありその中を通れれば7kmも短縮できたが自信がなかった。

その代わり分かり易い一本道の55号線を選んだのであるがご覧の通りの歩道がなく、

樹木が草道の真ん中を占有している。

4回目の休憩(30km地点)で軽食を食べているときに、

市役所から迎えの車が来た。

 

そのうちに盛んに携帯に電話が入るようになった。「今どこに居る?」という内容である。35kmほど歩いているのに、まだ6kmもある。こちらは時間がないのでリュックを担ぎながらマラソンである。この方がよっぽど早い。あと6kmという場所で最後の休憩。「今6km手前です。」などと応えていたら、なんと副市長、係りの男性と専属運転手3人が車を飛ばして探しに来てくれた。今回もグルジョンズの教会から紹介されたクフィジンの教会(Parafia  Świętej Trójcy(三位一体の教区教会))にお世話になることになっていたのに、市長の計らいでホテルを取ったのでそこを使ってくれとのこと。該当する教会へは市内観光の途中で寄って説明する。専属の歴史ガイドを付けたので思う存分市内観光をしてほしい。それが済んだら、タルタルステーキが有名なホテルのレストランで食事をしてくれ。という伝言を残して副市長自身は会議に行ってしまった。夜の9時半までmeetingがあるので、同席は出来ないとのこと。恐れ入った。明日の記者会見では英語の通訳を付けるがその通訳とともに市内観光をしてくれと。

どういう展開か。これもそれもソハチェフ(正確には隣町アルタンカ)の青年実業家が詳細情報付でルート上の都市全てに情報を流しておられるようである。参った! まぁ楽しもうではないかと開き直りの気持ちである。副市長秘書と歴史ガイドと先ほどの車の計4人とホテルのフロントで落ち合い市内観光ツアーが始まった。歴史ガイドは早口でまくしたてる。「その点あなたはどう思う?」などと突っ込みを入れてくるので気が抜けない。

Kwidzyn(クフィジン) 大聖堂

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(tud) 9 Jun 16:59

市内観光の途中でスケッチ。

みんなが見ている前で3分間で仕上げなければならず焦った。

最後はホテルに戻り食事となった。ここの名物料理タルタルステーキを注文。55号線からの車中で噂になっていたものだ。知っているのかと聞くので40年前に食べた味を思い出しながら涎を垂らしたものだ。兎に角こちらは力仕事なのでパワーの元が必須なのである。翌朝は450分日の出。走りに走ってview pointにマラソン。一宿一飯のお礼にスケッチをするためである。教会の屋根飾りが4段の飾りとなっている。Danskerと言うらしい。次のMalbork(マルボルク)までは車で送り届けてあげると。

Kwidzyn(クフィジン)を描く

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クフィジンにて。凄い展開となってきた。
一宿一飯のお礼に市長にスケッチを描いているところ。

記者会見が10時から始まった。通訳付。クフィジンの町をどう思ったか。なぜポーランドをスタート地点に選んだのか。道中の食事は。毎日何時にスタートし、何km歩き、何時に終えるのか。

旅の目的など。その他の話題として主に来週金・土にあるフェスティバルの相談などは、5人の責任者が会見に応えた。事前に市長と副市長に会って談笑。副市長がプレゼントしたスケッチ画を持って会見に出席。議長を務めた。通訳の女性は昨夜会食した女性。

16℃の晴れの景色をMalborkまで楽しむ。

 

翌日の記者会見は定例の市役所の広報活動の一環で多数のメディア関係がカメラを抱えて集まっていた。円卓には関係者10人ほど。メディアも10人ほど。であった。

話題の中心は来週に迫る大フェスティバルの演目の紹介などであったが、まず最初に小生へのインタビューとなった。合計約1時間ほど。

 

必ず聞かれるのは「どうしてポーランドなのか」・・「ピアノとブレハッチとポーランドというkey wordでカミさんがいつも話題にしていますので。」「小生も行きたくなりました!」と正直に応えると家に帰ってからカミさんに叱られる。ここは真面目にシェンゲン条例を満たす80日間に32kmを掛けると2560km。ドイツでは近すぎる、まだ行った事のないポーランドに照準を合わせました。それでも世界遺産の町・クラクフからパリまでの直線距離では1275kmしかならないため、大いに迂回をして、今回はヴィスワ川沿いの反時計回りで、ポーランドを旅するように計画しましたと。

 

早朝に描いたスケッチなどもテーブルの上に置かれ和やかな雰囲気。最後に外でリュック姿を写真に撮られる。

とんだだ英雄扱いである。感謝。

 

Kwidzyn(クフィジン) 大聖堂 下側から見上げる

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(wed) 10 Jun 4:40


 

 

25. 6/10() Kwidzyn(クフィジン)からマルボルク城 経由→Tczew(トチェフ)まで】

610日のこの1日は、歩行を止めてオフタイムとした。いつもは早朝から7時頃までには出発していたのにこの日に限ってはam10:00からの記者会見ということで、終了後にMalbork(マルボルク)まで車で送ってもらうことになった。またマルボルクから宿泊地のTczew(トチェフ)まではPKPIntercityの特急に乗って移動するという楽なスケジュールとした。

 

この記者会見の様子については今メールが入ったばかりである。Kwidzyn(クフィジン)TVYou Tubeのアドレスは下記。ブロークンな英語が恥ずかしい。横に居るのは副市長や通訳。実に傑作なvideoである。

10th June Kwidzyn TV

・・実にやばい・・My Wifeが・・とカミさんのことを喋っているではないか!

 

及びマルボルクでは、当地の記者(Radosłow Konczński)による記事についてもメールが入った。

11th June(czerwca) 2015

ポーランド語を訳すると『ヴィスワ川沿いに歩いている日本人がPomorzeに到着した。クラクフから歩いてきて明日木曜日(6/11)グダンスクにに向かう。

 

さて、そのマルボルクの記者(Radosłow Konczński)が目抜き通りで待ち構えていた.McDoで食事をしながらインタビュー。マルボルク城で分かれる。

高城の部分は450万個のレンガで13世紀に築城されたという。

強大な城壁、濠、偽装のための橋と格子の門、砲台、石投げ機械と弾薬庫。これらはドイツ修道騎士達(チュートン騎士団)が築いたものであるが、ゴシック建築の記念物として世界遺産に登録されている。

ノガト川ほとりに建つ。

 

Kwidzyn(クフィジン)の城

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(wed)10 Jun 06:28

お城と大聖堂がくっつたユニーク造りは中世からの攻防の歴史を反映している。

 

Kwidzyn(クフィジン)の記者会見

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(wed)10 Jun 10:13

この時の録画が上記URLである。

マルボルク城へ向かう途中

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(wed)10 Jun 11:19

マルクボルク城の外郭で遠足児童たち

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(wed)10 Jun 12:44

 

マルボルク城の破壊

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(wed)10 Jun 12:44

 

 

マルボルク城・中庭

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(wed) 10 Jun 13:13

世界最大、ヨーロッパ最強、ゴシック様式のレンガ造りの要塞である。

中庭から240°の眺め


 

 

マルボルク城・城壁から高城を望む

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(wed) 10 Jun 14:18

この絵はすこしデフォルメしている。

中央右の波線の部分で、左右に3,4cm(実寸3,40m)ほど伸ばして見ること。

外郭から266°の眺め

 

マルボルク城の濠を入れたスケッチ

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(wed)10 Jun 15:16

周りの住宅街からの方向

 



Photp:Tczew(トチェフ)駅でインターシティ

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(wed)10 Jun 17:14

 

マルボルク城を後にしてポランド鉄道(PKP)Tczew(トチェフ)へ向かった。Euro-Intercityという特急で一駅 11分。各駅停車もあったがまぁどんなものかと。ジュース一本のサービスが付いた。ここの民宿風の家は驚いた。閉まっていたのである。今までの夢のような旅からpoorな貧乏旅行に戻る幕開けか。

看板にあった電話番号に連絡すると暫くして宿屋の主人が車でやってきた。普段は人がおらず旅行客が来たら鍵を開け部屋や台所を使わせるというタイプで「民宿」のカテゴリーに入っていたものである。600円とべらぼうに安かったのはこんな理由からだ。昨日の豪華なホテルから一転奈落に突き落とされた感じ。近くの食料品店で材料を買ってきて食す。

 

26. 6/11() Tczew(トチェフ)からGdańsk(グダンスク)

三つ子の都市(tricity) Gdańsk グダンクスにて

さて翌朝は5時スタート。グダンクスまで37kmもある上、会わなくてはならない人が2人もいる。途中時間切れとなった場合はバスの利用を想定。道は簡単。R91を北上すればよいだけ。

強烈な太陽の下をグダンスクに向かって歩きに歩く。途中運河がありその堤を気持ちよくあるく。10km-20kmレベルの歩道でマラソンには最適。見晴らしもよい。

 

Tczew(トチェフ)からGdańsk(グダンスク)への途中

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(thu) 11 Jun 8:24
見晴らし台があったので登ってみた。散策道路がここからづっと東側に続いていた

 

Tczew(トチェフ)からGdańsk(グダンスク)への途中

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(thu) 11 Jun 13:07

10-20kmは続く川の土手。

マラソンコースには最適か?ただし日影がないのが残念。

 

 

2時間歩行30分休憩のペースでついにグダンクス市内に入る。時間は午後2時。運河沿いを進み末端にあるhostelへ。近くにはヒルトンがあり、運河に向かってBarの野外席を広げている。

 

モトワヴァ運河の景色

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(thu) 11 Jun 14:34

夏季限定の観覧車が回る。

運河の奥にあるのが木造クレーン。海洋博物館を兼ねている。



Gdańsk(グダンスク)の琥珀

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(thu) 11 Jun 16:21

 

グダンクスのホステル La Guitarra HostelStara Motława(モトアヴァ運河)の下流、ヒルトンホテルの近くにある。運河沿いの道はそのまま観光名所であり、かつ観光ルートにもなっているため沢山の人が行き交う。重いリュックを担いだまま人混みを掻き分けながら前に進む。

15:45到着と同時に洗濯をし着替えて外に飛び出す。午後4時待ち合わせのMariusz.L氏へは遅れると連絡しつつ、運河沿いのスケッチポイントを捜していたらレストラン(Pod Bandera)の入口近くで倉庫風景のview-pointを見つけた。レストラン側と交渉し食事を予約してからスケッチ。店の前で描くときは少し気を使う。その間Mariuszが現れる。

グダンスク・木造クレーンと海洋博物館

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(thu) 11 Jun 16:59
海洋博物館は3つあり、ひとつはこの木造クレーンの北側(向こう側)
あと2つは対岸にある海洋中央博物館、船内博物館。


 

 

Gdańsk(グダンスク)の高級ホテル

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thu) 11 Jun 18:11
中央のトンネル部は新モトワヴァ運河

 

実に名調子で市内を、特にSt.マリア教会を案内。St.Mariaの塔は高さ80m400段の階段で登れるという。レンガ建築では ヨーロッパ一大きい (ケルンの大聖堂も大きいが石造りという)ここにもサンティアゴ・デ・コンポステラに纏わるホタテやヤコブの像があった。スタンプは明朝9時に登場するコンシェルジェに頼めと。明日のSopotまでの20kmはかなり遅いstartになる。途中にあるオリバ教会でのオルガン演奏を聴くには都合がよいかも知れない。hostelの朝食サービスも7:30であることだし。

 

本来は1Wくらい滞在するのが普通なのであるがこちらはたったの1日。時間的余裕がないためすべてマルチで処置をしなければならない。そういう意味でガイドのMariusz.L氏は貴重な存在である。市内を足早に効率よく案内してくれる。世界最大のレンガ造りの聖母マリア教会。高さ78mの巨大な尖塔。ケルンのは石造りで最大というが、こちらはレンガ造りで最大という。

 

聖母マリア教会

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(thu) 11 Jun 18:23
世界最大のレンガ造りの教会

建造には1343-1502160年間を要したという。19:00からはLidia W.嬢とその友人の2人とバトンタッチ。ドゥウーギ広場のネプチューン像の前で待ち合わせる。
こちらは主に新モトヴァ運河という対岸の地域をくまなく案内してもらう。
微に入り細に入り。グダンクス・オケの拠点も見学。

次なるはグダンクスに住む2人の女性の登場。Długi(ドゥギ通りにあるネプチューン像の前で落ち合った。ここでガイドとお別れし港湾見学へ。

グダンクスフィルのホールなども詳細に。ポーランド語の事を色々聞いてみた。

なぜ「ヂェン ドブルィ(Dzień dobry こんにちは)」のことを「ジンドーブル」或いは「ドブリュ」「リュ」と発音したり返えしたりするのかと。早く発音すると「ジンドーブリュィ」となるが人によっては最後の巻舌が「ブリ」と聞こえたり「ブル」ときこえたりするが「bry」は速く発音されるの聞こえ方によっては「ル」「リュィ」と。なるほど。これからそのように発音してみよう。
50(pięćdziesiąt)をピェンヂェショントと発音するが、ピョンチヂェショントのようにćの部分をチと発音ないのは何故だろうと。曰わく。

ピョンチヂェショントとすると舌を噛みそうになるため省略されるのであると。

 

チェンストホバ詣でのことを聞いてみた

グダンクスからチェンストホバまでは438km7月下旬Długi(ドゥギ通り)にあるホーリー教会がstart pointであるという。

 

それを16日かけて歩くという。個人旅行ではなく1,000人規模の団体旅行であるという。各地からも出発するため経路が重ならないようにルートが決まるようである。R91を南下など。宿泊は学校の体育館などという。

 

運河の風景 倉庫群

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(thu) 11 Jun 18:51

 

 

翌朝は朝の運河を見学。聖母マリア教会でスタンプを貰いたいが10:00を待たなければならない。それまでは市内を散策できる。


 

翌日:Sopoへ行く前のひと時・・

グダンスク・モトヴァ運河の朝

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(fri) 12 Jun 5:04

朝焼け。倉庫群、教会の尖塔、ホテルなどが運河に映る。

グダンスク市庁舎

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(fri) 12 Jun 6:07

ネプチューンの噴水などがあるドゥウーギ広場から眺望

市の目抜き通り。モトヴァ運河を渡るジェロニー橋はこの手前

尖塔の高さは82m1561年には尖塔は完成していたという。

(すべては第二次世界大戦で破壊しつくされたので再建されている。)

 

Mariacka通り

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(fri) 12 Jun 7:18

夏にはここは琥珀などの土産物の露店がずらりと並ぶ街に化けるという。

この季節が静かでよいと。

聖母マリア教会が奥にある。