ヨーロッパ横断紀行
ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜 太田 宏
06・・その1−ドイツ2(リューベック出発からドルトムント到着まで 6/29-7/13)
【44. 6/29(月) Lubeck(リューベック)からNeritz(ネリッツ)まで】
【45. 6/30(火) Neritz(ネリッツ)からHamburug(ハンブルグ)→7/1(水)】
【46. 7/2(木) Hamburg(ハンブルク)からBuxtehude(ブクステフーデ)まで】
【47. 7/3(金) Buxtehude(ブクステフーデ)からHeeslingen(ヘースリンゲン)まで】
【48. 7/4(土) Heeslingen(ヘースリンゲン)からGrasberg(グラースベルク)まで】
【49. 7/5(日) Grasberg(グラースベルク)からBremen(ブレーメン)まで】
【50. 7/6(月) Bremen(ブレーメン)からVerden(フェルデン)まで】
【51. 7/7(火) Verden(フェルデン)からNienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)まで】
【52. 7/8(水) Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)からLahde(ラーデ)運河まで】
【53. 7/9(木) Lahde(ラーデ)運河からMinden(ミンデン)経由Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)まで】
【54. 7/10(金) Bad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)からBielefeld(ビーレフェルト)まで】
【55. 7/11(土) Bielefeld(ビーレフェルト)からGüterslot(ギュータースロー)Jakobsweg経由 Stromberug(シュトロームベルク)まで】
【56. 7/12(日) Stromberug(シュトロームベルク)からBeckum(ベックム)経由 Hamm(ハム)まで】
【57. 7/13(月) Hamm(ハム)からKammen(カーメン)経由 Dortmund(ドルトムント)まで】
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【44. 6/29(月) Lubeck(リューベック)からNeritz(ネリッツ)まで】
Lubeck(リューベック)からHamburug(ハンブルグ)までのmap
77kmを1泊2日で。途中の泊はテント泊。
今回の旅はブレーメン(1489km)でフィニッシュか?
元々痩せていたがこの4日で骨皮筋衛門になってしまったのだ。この過酷さか?
今までミスはなかった。 お腹はいつも順調であったのだ。ところがだ。ハンブルグの手前36kmのpointで最悪の事態に。最大の危機! 原因は農場で買った「野生の猪と鹿のサラミ」がいけなかったのだろうか。豚肉のサラミばかりでは栄養のバランスに欠けると店仕舞いまじかの暗い農家の店内から選んだのだ。テント内で食べ始めてから約半日。
2時間ごとの休憩のたびに「緊急持ち出し」と決めている赤いサックを抱えて藪に駆け込まざるを得なかった。食中りの症状。距離が長い上に物凄く暑い。もうへとへとでハンブルグの町中の公園のど真ん中にあるDJH(Deautsch Jugendherberg)に辿り着いた。2泊なのでゆっくりでいいのだ。市内観光どころではなくベッドに潜り込む。同室のドイツ人男性は1週間の予定であると。有用な情報は彼から聞き出そう。6月29日からドイツはいきなり冬から夏になった。
7/4(日)はなんと気温35℃。もう歩くのは危険でもある。
ドイツ徒然
信号システム交差点のそばで休んでいるとき見るともなく信号の間隔を計ってみた。赤から次の赤までの間隔がたったの50秒である。交差点で待たされるのは人も車も嫌な筈。それがここではその真理を読んでいるのか恐ろしく小刻みに変化する。町や村の全信号がそのような感じなので一回で通れる車の総数は20台ほどであるが渋滞はない。もっともround aboutもあるので全体に流れがよい。車の集合体をセグメント(一群)と見做した場合、小さい塊が沢山出来てスループットを良くしているように見える。日本のように3分待ちというようなイライラの長い信号待ちは皆無である。
コーラ依存以前大峯奥駆をやったとき、一緒になった方が炭酸飲料を飲みたいばかりに玉置神社登山口と神社を往復された。自販機に小銭が必要であったためである。水ではだめなのか と不思議に想ったものだが最近その気持ちが分かるようになった。パンばかり食って口がもぞもぞしているような時炭酸水やコーラがあると食べやすいのだ。単独でも欲しくなってきている。冷たい物が飲みたいときはなおさらである。ツブツブと痛いような食感がたまらない。
6/29(月) Bad Oldesloe(バート オルデスロー)・・
スーパーが7時から開くというので7時前にHostelを出発。しかし件のスーパーskyは8時open。宿屋を信じて前の晩は食料品をgetしていないのである。玄関前で待ってもよいが1時間のロスは大きい。先に進むことにした。次に狙ったスーパーはなんと10:30open。話にならない。リューベックの旧市街は島のように幾多の川でしきられている。見上げるばかりの巨大な大聖堂の脇を通って市街を抜けていく。リューベック駅の近くにスーパーがあった。ここは7時openである。しこたま買い込んだので一気にリュックが重たくなったがライフラインを担いでいると思えば大したことはない。
75ルートを基本的に行くも途中から
バート オルデスローの中心街によるため川に下っていく道を取った。恐らく誰も通らない粗道を取ったため川沿いにぶつかった所で「なぜそんな所から」というような驚きの表情。こちらは通れそうな道は全て選択肢に入っているのだから。
町の中心はリューベックと同じように小さな島となっていて、旧市街を形成している。月曜日の15時。通りはごったがえしている。若者グループは通路に並んだテーブルを囲みビールで気勢を上げたりしながらリュック姿の小生をいち早く凝視した。こちらもテント場まではまだ数キロもあるためコーラーを注文し道行く人を観察することにした。実に皆楽しそうである。「午後の紅茶」timeはゆっくりと流れていく。
6/29(月) Neritz(ネリッツ)にて・・大いに期待をしたのであるが、寂しい街道筋の一軒屋で、リンゴ農家が営むトタン屋根の雑貨店であった。家族で経営しているようで18時の店仕舞いをしている所であった。事情を説明しパン、サラミ、リンゴなど暗い店の中を駆けずり回りめぼしい食料品をget。レジで会計するついでに、そこで度胸を出して聞いてみた。「テントを張る所はないだろうか。ほんの1mx2mのスペースで良いのですが。」と。心易く林檎園の木の列の外れが道路からも離れていて寝るには良いのではないかと心易く応じてくれた。pm6:00と言う早い時間からテントを張れることは有り難い。店にあったアルコール類のうち地元産のビールも手に入れた。瓶代は1ユーロであるが帰るとき店の前に置いておけとの事。確約をし早々とテントに潜り込む。翌朝早くに描いた店のスケッチをお礼代わりにおいて出発。悲劇はその直後から起こり始めた。4日4晩 生きた心地がしなかった。下半身が火事場となった。下痢していてもカロリーはとらねばならない。苦しい戦いであった。このまま治らなければ旅を切り上げる。
(tue) 30 Jun Neritz(ネリッツ)のリンゴ園からの眺め
(mon) 29
Jun 21:29
Photo:Neritz(ネリッツ)の朝靄
(tue) 30
Jun
【45. 6/30(火) Neritz(ネリッツ)からHamburug(ハンブルグ)→7/1(水)】
ハンブルグに至る道は数有れど、L75線と途中のBargteheide(バルクテハイデ)からL225線の計37kmに亘っての歩道は今までの比ではない。恐ろしく整備されていた。都心芸術とでも言おうか。その幅が次第に太くなる。歩道10m、バイク専用道5mなどと。
町中は夏がやっと来たという開放感のような佇まい。朝13℃でも昼は30℃という具合に急激な上昇である。あらゆる通り、広場が人で埋め尽くされている。歩道が30mとなってしまった。左右に10m、真ん中に出店スペース10mと。銀座の歩行者天国が全ての通りにあるという感じで恐ろしい程だ。ビジネスマンは皆格好いい。ぴっしとスーツを決めて闊歩する。Sushi(寿司)の店も多く箸を使って器用に食べている。
お腹の調子が今一つなので、観光は2つのみに絞った。潜水艦:Uボート(U-434-Tango Class-Project641B)と、St.Michaelis教会。湾内に停留して何十年もたつUボードは人気がないのか行ったときは閑散としており小生1人のみの見学。頭を何回もぶつけながら狭い艦内を上下しながら歩いていく。閉所恐怖症気味の小生にはとても任に耐えられないであろう。複雑過ぎる艦内配線などなどどのように設計したのであろうか。
St.Michaelis(聖ミヒャエル)教会はハンブルグきっての壮大な教会で時計台の塔(132m)に登れるとあって人気のスポットである。階段を駆け上がった。晴れた日であったので周囲360度見渡すことが出来圧巻であった。
さて長年使っていた磁石が壊れた。磁石って水の中で浮いていたとは今まで知らなかった。プラスチックの天板が僅かに割れていて気泡が入ってしまったのだ。もうこうなると気泡が邪魔をし正確な角度を表示しない。水を完全に逃がしてしまえばよいのであるが果たして機能するのであろうか。タブレットのソフトでも良かったのであるが新しいのを市内で探し歩いた。自転車屋に飛び込んだらSport CheckとKarstadtの2店を教えてくれた。結局Karstadtの店のうちハンブルグ中央駅に近い方の店の3階で磁石を見つけた。鏡の付いた磁石が30ユーロと高め。長目なので旅先でまた壊れる恐れがある。ここは玩具のような3ユーロの安いやつをget。これを買うため市内を6kmくらい散策したことになる。夜はDYH内のレストランで7ユーロの魚料理に舌鼓。巡礼価格のように安かった。野菜たっぷりであった。
さてこのユースでデンマーク人2人組とも会っている。朝飯が7:00から始まるのであるがその先頭で並んでいたのは小生を含めてこの3人。バイクで一週間ほど旅をするのだという。往復には鉄道を利用するという。75歳と73歳の小学校教員コンビで英語と算数を教えていたのだという。73歳の方はオルガンをプロ並みに弾きカルチャーセンターなどで披露するのだと。
翌朝は良く晴れた。崖の上に建つDYHは眼下にハンブルグ湾を見下ろすことが出来る。目の前をクィーンエリザベス号がゆっくり入港してきた。この湾は100年も前から地下通路が幾本も掘られ対岸との交通の便を計っている。喫水の深い豪華客船も入港できるほど深い地下通路があるとは驚きである。
HamburgのSt.Marien教会の塔からの360°の展望
東北の位置から45°反時計回り
ハンブルグの満月
ドイツ最大の港湾都市に入った。胸躍るではないか。多少サラミ肉で腹を壊しているとはいえそれを上回る感動が込み上げてくる。エルベ川河口から東へ100kmも内陸を遡上した場所に港が開けている。クイーンエリザベス号は西から東へ入港。多数の運河や川の支流、波止場、Außenalster(外アルスター湖)がエルベ川に注ぐといったように、さながら水の都でありリゾート土地である。
Hamburug(ハンブルグ)にて
この町の印象は、肉体労働者が多く働く町と映った。いままでのどの町よりも。教会修理工、道路工事作業員、港湾関連作業者、エルプ・フィルハーモニー建設((独: Elbphilharmonie Hamburg、愛称: Elphi)この奇抜な建物は2017.1に完成)にかかわる労働者、橋の付け替え工などが多く、もうあらゆる労働者のオンパレードである。昼からビールを飲んでいる人を見るよりづっと気持ちがよい。あぁドイツってこういう人々が担っているのだなぁと感心。ビジネス街は逆に男女が夏でもスーツを着こなして鼻高々に通り過ぎる。背の低い日本人のひがみでもあるが格好よすぎる。
ハンブルグ:Außenalster(外アルスター湖)
(tue) 30
Jun17:04
Binnenalster(内アルスター湖)
(tue) 30
Jun17:38
サンクト・パウリ桟橋へ向かう
(wed) 1
Jul 8:30
ユンクフェルシュテイン通り
Hamburug(ハンブルグ)・サンクト・パウリ桟橋
(wed) 1 Jul 9:27
右側の波踊るような外観のビルがA埠頭に建設中のElbphilharmonie Hamburg ( 略称Elphi)
(エルプ・フィルハーモニー・ハンブルク)
音響設計は、ポーランド・Katowice(カトヴィツエ)同様、永田音響設計。
ハンブルグ・St.Michaeliskriche(聖ミヒャエル教会)
(wed) 1
Jul 9:57
聖ミヒャエル教会の尖塔より市街地眺望(アニメーション)
(wed) 1
Jul 10:51
ハンブルク港のレンガ造りの建物
(wed) 1
Jul 19:43
St. Pauli
Elbtunnelなど長い建物の端にある。
右側の丸いドームは対岸との地下通路の出入り口 100年も前から地下通路はあった。
【46. 7/2(木) Hamburg(ハンブルク)からBuxtehude(ブクステフーデ)まで】
Hamburg(ハンブルク)→ブレーメン(Bremen)までのmap
今回は地図上に「Jakobsweg Via Baltica」のcamino道とこの旅の実際のルートを併記した。ハンブルク−ブレ−メン間は南西方向で直線95km。歩行ルートで122km。3泊4日で、最終日は17kmとしたため、その他は35km/1day。この2つの都市に共通しているのが市がそのまま独立州となっている点。ハンブルクはエルベ川の河口から100kmの港湾都市。ブレーメンはヴェーザー川の河口から50kmの港町。
7/2(木) Buxtehude(ブクステフーデ)にて・・エルベ川を渡って南下するルートは幾つもある。フェリー、トンネル、橋による迂回と。100年もの歴史があるトンネルルートを通り南下することも魅力的であったが、クーインエリザベスの停泊風景と、完成間近の不思議な建物「エルプ・フィルハーモニー・ハンブルク」を見学できるように、橋による迂回ルートを選んだ。
17km進んでもまだ町の中。行程の半分という距離は昼食に当てているが、まだ出発した町の中というのは初めてである。しかも暑い。ほとほと体力を消耗させる。日陰と思っても太陽の動きは早くすぐ日当たりとなってしまうので油断はできない。
日中は気温31℃と暑く歩くのは危険。しかも道は西に延びている。太陽が正面から直撃する。2kmのカウント毎に日陰で小休止。今日の目的地はブクスフーデにあるL75号線沿いのMcDonald。1:00まで営業しているとのこと。3泊のテント生活なのでここでタブレットの充電もしよう。といつものように道路枠で寝ていたらご婦人の車が止まった。McDonardへ行きたいのだというと「乗れ」という。息子が巡礼経験者であるので一目で助けたくなったのだと。Jakobi-Weg(camino道)がこの近く丘の上を通っているとのこと。息子はやはりテント生活で4日間頑張ったのだと。お礼のバッチを一つ差し上げた。
McDの店で時間を潰した後夕闇の中を池の方に降りてテント場を見つけなければならない。初めての経験である。早く寝ないと明日の行動にも差し支える。只今21:35。日は沈んだがまだ相当明るい。どうする!最悪はこのMcDの閉店を待ち敷地内に場所を貰うことだがそれでは遅すぎる。出発することにしよう。
あぁこの疲れ気味の青年(自称)を誰か助けてくれないだろうか?
McDを出てから1sec後に隣の工事用の道が目に入った。池に通じる道が今ブルトーザなどが入り整備されようとでもしているにではないだろうか。場所は決まった。より平らな場所を捜してテントを張る。ブルトーザーの隣である。自動操作で朝動き出したら一貫の終わり。早朝スタートとすべく就寝。
【47. 7/3(金) Buxtehude(ブクステフーデ)からHeeslingen(ヘースリンゲン)まで】
苦しい32kmであった。
早朝のスタート、なにせ昨日は工事現場にあったブルトーザの脇に場所を得たため、自動で車が動き出してしまわないか、作業が早朝から始まってしまわないかと気がかり。追い立てられるように現場を後にした。ざぁざぁ降りの雨が降り出したが昼からは日差し。
気温は31℃。西に向かうコースなので午後は木々の影以外は太陽が直撃。L127号は超田舎道ゆえ所々で歩道が途切れる。ふらふらと車道にさまよい出れば70kmで飛ばす車の下敷きに。ここは慎重に途中で睡眠を取りながらの進行。歩き始めたらやはり車が止まる。皆、聞くのだ。水はあるのか。何か困っていないのかと。田舎道ゆえの親切心を100%感じる。歩道のない道を慎重に歩いているときだ。仕事帰りの若者2人が乗ったワゴン車が止まった。何か口に入れるものを提供する店までと。アイスクリーム屋があったので止めてもらった。コーラにジュースにアイスクリームと。命拾いしたものの店内は異常な暑さ。クーラーをかけているものの尚暑い。少し店内で微睡むも外の方が快適。午後5時にして残りの8kmをがんばるのみ。遅くとも8時には着きたい。スーパーのNettoがあることは調べている。日差しは十分すぎる。道を急いでいたら本日2度目の救いの手が。
Heeslingen(ヘースリンゲン)への雨の街道L127
(fri) 3 Jul 7:44 土砂降りの雨の歩道。こういう時でも2時間置きにstopし軽食を食べる。利用できるのは大木の下かバス停の屋根の下。
Heeslingen(ヘースリンゲン)へ。肥料を撒く。
(fri) 3 Jul 10:52
早くも麦が収穫された。その後は土を掘り返し、肥料を撒き二毛作か、翌年の植え付けに備える。撒いているのは黄色い物であった。
Heeslingen(ヘースリンゲン)近く 乗りなさい!
(fri) 3
Jul 17:22 openカー。
この女性ドイツcamino(Jakobsweg Via
Balticaのルート)のルート上に
自宅があり宿を提供しているとのこと。
Heeslingen(ヘースリンゲン)近くを歩いていたらopenカーが止まった。普通のセンダン型の車体がopenカーに変身する様は完全自動式で面白い。後部座席がトランクに仕舞わ屋根が割れて左右に収納される。2人乗りのopenカーへと変身する様は、リューベックのスーパーの駐車場で既に見ている。この時は足の悪い男性がリモコンで操作をしていた。そのopenカーが止まったのである。
(fri) 3 Jul 17:22 openカー。この女性ドイツcamino(Jakobsweg
Via Balticaのルート)のルート上に自宅があり宿を提供しているとのこと。
オープンカーの女性だ。同じことを聞かれる。目的の場所はテント場であるがホテルの裏側ときめている。Zum Heeslingenホテルである。颯爽と車はホテル裏側の駐車スペースに乗り付けた。自動折りたたみ機能をもったドイツ車。その女性、ここから20kmほど放れたところに住むがJakobi-Weg(camino)に面しており巡礼者に宿を提供し。ホストも務めるという。石畳の道が残っているという。その道も途中通った。なんという有用な情報であろうか。インターネットで「JakobiWeg Deautsch」と検索するだけで全ての情報が出てくるのではないだろうか。ホテルで寛いでいた左官風の2人にドイツ語で聞いてみたがこちらはSantiagoすら知らなかった。JakobiWegは知る人ぞ知るという道のようである。話し込んでいる内にこのホテルに泊まりたくなってきた。お腹は快復の兆しがあるものの、テント泊は厳しすぎる。ここは命を優先させた。シャワーを浴び洗濯をすると睡魔が襲ってきた。目ざめると19:35。スーパーが閉まる時間であるがここから10km先の大きな町にもあると女性から聞いたので急ぐことは無い。階下はレストランになって華やいでいる。クールな食材ばかりで生きているのでここはホットなスープや料理が欲しい。フライパンでの炒めものが名物のようである。きのこやパプリカを炒めたものをオーダー。美味。
【48. 7/4(土) Heeslingen(ヘースリンゲン)からGrasberg(グラースベルク)まで】
7/4(土) Grasberg(グラースベルグ)の地獄と天国・・前夜、小生を救出した女性のopenカーはHeeslingen(ヘースリンゲン)のホテルの裏側の野外レストランの場所に止まった。そこからテント場に進むわけにはいかず、カッコよくホテルのドアを蹴ったという次第。その宿は朝食が7時スタートであるが早めにしてもらうように頼んでいたがちゃんと当番の女性が待っていてくれた。
Grasberg(グラースベルク)へ。炎天下の自転車道
(sat) 4 Jul 12:02 この道をしばらく行ってサングラスが無いことに気付いた。
余りにも暑く頭がぼんやりとしていたようだ。だいぶ戻らなければらならかったが見つかってほっとした。
グラースベルグまでの道はほぼL124やL133の県道なので静かな雰囲気。途中のTarmstedt(タルムシュテット)で日中の時間調整。スーパーの買い出し(明日の日曜の分など)の後アイスクリーム屋で相当粘ったがやすい買い物で長く居座るのは気が引ける。しかも外はまだ灼熱の太陽。ここでの日没は21:50と表示されている。17:00でも太陽は頭上。その中を覚悟して歩いたが体がエンストを起こし歩きたがらないのだ。そうなるとマットを敷いて寝るしかない。買ったサクランボなどで栄養補給しながら。知らなかったがこの時刻、後30分で大嵐が来るという予報が出ていたらしい。とても危険なやつという。ブレーメン郊外に住む父とその息子たち。ラジオで暴風雨の情報を聞いて慌てて帰宅する途中であった。ともかく早く車に乗れと拉致される。車中で「大変危険な嵐がやってくる。Grasberg(グラースベルク)が危ない。」と父親が言う。息子たちの車は先に行ってしまった。そこのレストラン前で降ろしてもらう。ただし此処が最大の危険地帯で早く屋内に退避せよと言い残して車はブレーメン近郊の自宅にすっ飛ばしていった。この「危険」という言葉の実感はその時はなかったのだ。シナリオでは開いているはずのレストランで時間を潰し県道脇の空き地にテントを張る予定であったのだ。
テント予定の場所に近く夕闇が迫るまでここで夕食をゆっくり食べる積りなのだ。ところが店は閉まっている。本店は2km手前の町Tarmstedt(タルムシュ テット)にあるからだろうか。
困ったこともあるものだ。200mほど離れたテント予定地を見に行く。画家が絵を描いている彫像があった。その画家の故郷であろうか。この場所でもよいが街道筋に近く少々うるさい。
再度先ほどのレストランに戻った。嵐の20分前である。広大な芝生の庭園があり柵もなにもない。できればここにテントを張らせてもらえないだろうか。呼び鈴を鳴らして交渉してみた。4人が次々に出てきて親切に対応してくれた。okという返事。どこでも使えという。(嵐10分前)
納屋があり庇を借りる積りでテントを張った。納屋は切り妻の建物で前後が開いている。そこに農場で使ういろんな作業車が並んでいる。大きなゴミ箱もあったが、下に車が付いている。雨になれば庇よりももっと中側が快適であろう。荷車や台車、ゴミ箱をちょっとづつずらせてテント一張りの空間を確保。テントを移動させ、リュックなど全部中に仕舞いこんだ直後だ。
パラパラと大粒の雨が降り出した。トタン屋根に当たり大きな音がする。テントの通風孔から外を窺うと、周りの景色が真っ黒に変わった。突風が吹き始めた。
農場は一瞬にして見えなくなりザーザー降り。猛烈な風。小屋が持ちこたえられそうにもない。風速50mくらいの突風である。そのうち機関銃のような連打が。大きな雹がトタン屋根を直撃。風に煽られてそれらがテントにも降り注ぐ。
ピンと張ったテントでも雹が小生の頭に当たるようになった。ズボッとテントが凹み頭を直撃するするのである。このままではテントに穴が開く。幸いテントは中から畳めるようになっているのだ。支柱をはずし真っ直ぐに伸ばせばテントはぺしゃんこになる。ただ開口部を開けたままとなってしまう。ベンチレータの穴と開口部の穴を塞ぎ、この嵐をやり過ごすことにした。
アルプスの小屋で経験する暴風雨と似ている。もう小屋が吹っ飛ぶかもしれない。中のトラクターが少しずつ動き出した。小生を煎餅のように平らにする積りであろうか。雷鳴がとどろきどこかに落ちる。
その凄まじい大音響。暴風雨に雹。それにトラクターが襲い掛かる。1時間もそのような状況が続いたであろうか。
故郷の大阪で度々経験していた大きな台風(ジェーン台風、室戸台風、伊勢湾台風など)の比ではない。風速100m級、最大震度7の大きな揺れ、雹の激打撲、もう身体がボロボロの状態である。小康状態となったので外に這い出した。
街道は木が倒れ道を塞いでいる。さきほどのレストランは跡形もなく・・。ちゃんとあったが、全員小生が生きていたことに喜びの安堵。もう抱きつかんばかり。そこで今日はゲストルームに泊まれと。自分たちの2階の半分がゲストルーム。部屋は全部で4部屋。2部屋づつ1setになっている。好きな方を使えと。まさに天国。10畳、20畳の客室、超でかいシャールームなど自由に使えと。一宿のお礼に朝靄に煙る牧場をスケッチし館を後にした。
地獄から天国へ。
Grasberg(グラースベルク)の嵐通過後
(sat) 4
Jul 19:34
【49. 7/5(日) Grasberg(グラースベルク)からBremen(ブレーメン)まで】
嵐の次の朝。豪華なゲストルームから見える景色をスケッチし、一宿のお礼として玄関前に置いて、そっと抜け出す。2階の半分が家族全員が住む空間。残り半分が客室という作りで全く恐縮してしまう。このお礼は日本全土の絵葉書を束にして送ろうではないか。
外では牛が草を食む。不思議なものだ。あの嵐の間どこに居たのでろうか。平面の牧場では普通牧童はいない。牛の親分が皆を安全な場所例えば納屋などへ誘導したのであろうか。
朝靄にそれらが点在して静かなグラデーションを作っている。茶色、こげ茶色、黒。小さい点から大きい物体まで。相当数が1km四方の牧場に散らばっている。
Grasberg(グラースベルク)
(sun) 5
Jul 5:23 嵐が去った翌日 朝の光景。
Bremen(ブレーメン)の市境
(sun) 5
Jul 8:01
あぁやっと山が。ドイツ北部で目にする最初の山か?と色めいたが、なんと林が重なり山のように見えただけである。ここはヴェーザー川沿い。あくまでも平坦なのである。
自転車コースの標識
(sun) 5 Jul 10:05
マラソン人に付いて行ったら標識が。
ハンブルク 142km ブレーメン9kmという。totalで151km?
小生のcount122kmよりも30kmも長い。自転車道路は、ハンブルクからS字状に長いcamino道「Jakobsweg
Via Baltica」のコースを言うのであろうか。
Bremen(ブレーメン)旧市街南東側入り口
(sun) 5 Jul 16:32
ブレーメンまでは17kmしかないので、楽勝である。すぐ歩道付きの道となり、トラムの軌道が寄り添うような大都心に近付いた。日曜日でもパン屋はしっかり開いている。通行人や自転車の人を良く観察することだ。彼らは一様に手に何かをぶら下げているか、買い物袋を持っている。どこから出てくるか、何処へ曲るか。それらを目で追うのである。そこには小さな菓子店であったりパン屋が決まってあるのだ。生命線がそこにあるので助かる。
漫然と歩くのではなく、車の曲がる方向や人の動線から地形を読み取り店屋を察知するのである。マラソン人が道を曲がって行った。それを追う。なんと都心までのトレッキングコースを発見。途中プールがあった。暑い日であったことを思い出している。
そんな調子で楽しくブレーメン中心部に到着。Hostel受け付けは14時なので、荷物を預かってもらう。軽装で中心へと向かう。hostelには住宅街を縫うようにして辿り着く。今までの雰囲気とは違い4、5階建てのビルが続く小都市。
日曜日はレストラン意外全ての店は閉まっている。中心街にある「Bremen Stadtmusikanten :ブルーメンの音楽隊」の彫像さえ見れればここに来た意味がある と勇んで出かけたものの肝心の彫像がなかなか見つからない。方向感覚も希薄になりかけているのであろうか。近くにある有名レストラン
「Bremen Rastskeller :ラーツケラー」をGoogle
Mapで検索して初めて分かった。出店のパラソルの影で見えなかっただけである。電車通りをおとなしく進めば良かったのだ。
さて今後の身の振り方は次の課題で決定である。
不味いパンの生活はもう懲り懲りである。いまは青椒肉絲かソーメンが食えれば小生は蘇生する事が出来る。特にのどごしのよいソーメンを食すまでは死ねないのである。日本に帰る目的はこの2つ。
Hostelで教わっていたChinaレストランに行って青椒肉絲を注文して見た。ピーマンの代わりにインゲン豆と茸 味は似ている。たっぷりの牛肉。とても辛い味つけ。直前で聴いていたドイツ音楽。これらが小生を蘇生させたようである。旅を続けよう。
Bremen(ブレーメン)のブタの像
(sun) 5 Jul 17:05
ゼーゲ通りにあった。右はブタ使い。
幼児が戯れておりかわいい。
Bremen(ブレーメン)・St.Petri-Dom(聖ペトリ大聖堂)とRathaus(市庁舎)
(sun) 5 Jul 17:48
雨のため急いで描いたのであろうか。画像が歪んでしまった。これもご愛嬌。
【50. 7/6(月) Bremen(ブレーメン)からVerden(フェルデン)まで】
翌日
ブレーメン・ヴェーザーシュタディオン
(mon) 6
Jul 8:03
Bremen(ブレーメン)からBad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)までのmap
14.Bremen(ブレーメン)→Dortmund(ドルトムント)間は288kmそれを半分づつに分け
14a.Bremen(ブレーメン)からBad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)までの145km。3泊4日 36.3km/1dayを記載。Jakobsweg(ドイツ版camino)の「Jakobsweg Via Baltica」と「Jakobswege in Westfalen」を併記している。
Bremen(ブレーメン)からDortmund(ドルトムント)まで
の経路説明
267kmの長い区間を8日かけている。Bad Oeynhsen(バート・エーンハウゼン)までは、ほぼWeser(ヴェーザー)川を遡上するコース。ハノーバーまで伸びるメルヘン街道の途中から南に折れる。Nordrhein -Westfalen地域北方の丘陵地帯に流れを阻まれバート・エーンハウゼンで川は東に反れていく。変わってラインの支流が顔を出し始めこの後報告するであろうKöln(ケルン)でみるラインの本流に合流する。その意味で今回の長いコースは2つの地域が出てくる。何とか違いが報告できればと思う。途中は7泊。そのうちテント泊が5泊である。
ドイツ徒然
電柱
この2ケ月 電柱を見ていない。家に引き込む電線も見たことがない。彼らはどんな風に家に電気を引き寄せているのであろう。まぁ素朴な疑問の前にスケッチのアクセントが何か足りないと思っていたらこれが電柱であり電線であったわけである。日本での街中、例えば谷中銀座の商店街を描こうとするなら電柱と何百本も錯綜する電線がアクセントになっていた筈である。ところがこちらはそういうものを見かけないためかどうも景色にアクセントがなく間延びしているようにさえ見える。道路脇の黒い標識棒が唯一「この下に電線有り」と言っているのではないだろうか。ポーランドでは畑の一軒家の場合電柱があった記憶があるがドイツは法律で禁止しているためなのか田舎に行っても皆無であり徹底している。
畑
5月から見てきた麦畑。日程を消化するに従い徐々に背を伸ばし穂を付け大きくうなだれるようになってきた。いよいよ収穫の時がやってきたのである。1km四方の麦畑は小生の計算では10
4億個の麦粒の収穫となる。1本に麦穂が52(=13x4)粒。1m四方に200本の麦。1km四方では1000x1000x200x52=104億。
大型の工作機械が唸りを上げて広い麦畑を駆け回る。恐らく半日で収穫を終わるのでは無いだろうか。写真は刈り取りが済んだ畑。無数のストローが波のように積まれている。
同様に1km四方の菜種畑。飛行機からでも黄色い菜の花が確認できた。此方はもう少ししてから。採取するは完熟してから摘み取るのであろう。菜種油を採取する。
牧草だけを育てる畑もあり面白い。こちらはある程度伸びるとつみ取るようで3時間ほどで終わる。
トウモロコシ畑は今が成長の真っ只中。日に日に背を延ばしていく。
イチゴ畑はウクライナからの出稼ぎが6月のポーランドを後にドイツにやってきて人海戦術で摘み取る。たくさん人が居るのに一言もお喋りはない。全員黙々と。街角には今イチゴ売りの特製の屋台が出る。
どの畑も刈り入れが終われば、肥料を捲いたりと次の準備に掛かる。畑はしょっちゅう農耕機の出入りがあり賑やかである。
7/6(月) Bremen(ブレーメン)からVerden(フェルデン)まで
メルヘン街道はブレーメンから、グリム兄弟の故郷Hanau(ハーナウ;フランクフルト近郊)までの600kmを言う。グリム童話の中の「ブレーメンの音楽隊」はついにブレーメンには到達できていないのであるがしっかり彫像が建っており面白い。
そのブレーメンを経ちヴェーザー川を右手に見ながら東へと進む。高い堤からは川沿いの競技場などが眼下に見える。沢山の生徒が行き交う。体育の授業でもあるのであろうか自転車を飛ばしながら芝生の斜面を勢いよく駈け降りていく。黒人の女学生はその上で立ち止まってしまった。そこで「Yes We Can」と叫んであげた。
Schloss Etelsen(エーテルゼン城)
(mon) 6
Jul 15:41
Achim(アヒム)の街ヴェルデナー通りに玄関があり川岸までの緑地を借景とした広大なお城
幾多のコンサートが開かれるようである
テント泊の場所に近づいた。男性が店にあった花を見ていたので自己紹介しながら近所の情報を聞き出す。テント場としてはこれより少し西側のSachsenhain(ザクセンハイン)がいいだろうと。まぁだいたい決めていた箇所に近い。例の如くMcDにて21:50位まで粘る。フリッツを一本づつ食しながら家計簿を付けたり日記を書いたりと結構時間は稼げる。コンセントが遠くに一つだけ。バッテリーの方をチャージしておく。夕闇の中テン場と決めておいた方向に歩き始めるがこの時間になって歩いている人はいない。何やら寂しい気持ちである。逆にものすごい騒音。鉄道2本と国道のためである。鉄橋付きというこれまた騒々しい条件が揃った。しかしながら誰も来そうに無い場所であるためここに決定。朝4時までの辛抱である。耳栓を深くまで押し込み、ウォッカを飲み就寝。なかなか快適。
【51. 7/7(火) Verden(フェルデン)からNienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)まで】
Verden(フェルデン) 朝のしじま
(tue) 7
Jul 5:07
ヴェーザー川の支流アラル川を挟んだVerden(フェルデン)の街並み
本日の予定はホテル。景観から飛びついた河畔のホテルである。フェルデンから40kmもの距離があるが出来たら早く到着してスケッチを描きたい。その意味で残り8kmをバスで飛ばしても良しというスタンス。途中の町Eystrup(アイストルプ)は鶏肉のグリルバーがあるということは事前に調べてある。街道から300m入らなくてはいけないが。残り16kmの地点でちょうど昼前。午後は3時まで閉まってしまう郵便局が開いていたので飛び込んだ。11:30という時間は丁度そこにあった郵便局が閉まる時間でもあった。洋裁店を営みながら郵便局もやっているというアバサマに交渉して日本に荷物を送るための相談をしてみた。5kg用の手ごろなダンボールを見つけてくれた。その中にスタッフバッグ3袋分(7Lx2,5L)に、衣類や、ポーランドに関する本や地図などを詰め込み日本に発送。total 3kgくらいの軽量化が図れた。スケッチブックも一冊この中に入れたのである。13kgが10kgに。なんと軽くなったことであろうか。飛び跳ねるような気持ちで歩むことになる。兼ねて考えていたように減量に挑戦するときがやってきた。すでにスケッチブックは100枚を描き終え日本に送れる状態。着のみ着のままのスタイルにしては冗長が多い。行く先々で貰ったTシャツもたまっている。太陽電池も今ひとつ効果が定かでがない。こういうものを集めたら3kgともなった。まぁ少し減量して今後の行動に備える。かさばるものが減ったため2つのバッグを一つにも出来るような勢い。焼き鳥屋でこんがり焼きあがった手羽を半分平らげる。さてホテルに急ごう! 走れそうな態勢で。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)への道中 乗馬の2人
(tue) 7 Jul 10:19
道端で休憩していると森の中から現れ
街道を横切って行った。
結局5km位手前でバスを捕まえて良かった。ニーンブルグのold townは木組みの家ばかり。少々傾きもあるが愛嬌。なかなか面白い町並みである。ホテルではテントも洗わねばならずやることが多い。洗濯やシャワーを浴びているうちに疲れ切ってしまった。最後の力を振り絞り教会へ。印を貰う。細い流れがありレガッタの練習場になっている。
Hotelの近くにある上海酒店へ。もう病みつきとなった「青椒肉絲ー風」を注文。漢字では通じなかったが恐らく「Nach Szechuan-Art mit mit/ohne Knoblauch 四川風+にんにく」ではないかと。出てきたものはこれぞ青椒肉絲風の料理。Bremenの店で出てきた簀の子のようなステンレスの置きだいは2つ火が点っており料理とご飯を暖めてくれているのである。なんとも細やかな気の使いよう。感嘆しながら食すがどのドイツ料理よりも安くビール2杯を入れて13ユーロ。
写真はニーンブルクの木組みハウス。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)St.Martins(聖マルティン教会)
(tue) 7 Jul 15:37
レストランは木組みの家。その向こうに教会。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)のアスパラガスの像
(tue) 7 Jul 15:53
アスパラガスはミッテルヴェーザー地方で栽培される。
おそらくアスパラガスの起源がこの町にあるのであろう。
ニーンブルク博物館のラウフハウスはアスパラガスの博物館になっているくらいだ。
ドイツでは春の野菜。他のアスパラガスの町としてシュヴェツィンゲン(Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)から350km南)が有名である。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)の木組みの家屋群
(tue) 7 Jul 17:41
趣がある。この一帯の古い家はほとんどが木組み。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)
Hotel Weserschlösschen(ヴィエザシュロッセン・ホテル)
(tue) 7
Jul 18:05
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)のカヌーの練習風景
(tue) 7
Jul 18:12
【52. 7/8(水) Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)からLahde(ラーデ)運河まで】
本日の予定はテント泊。但しキャンプサイトがあるためそれを目指す。
ヴェーゼ川の河畔に近い場所のホテルの朝食は早かった。6:30である。1番客と思ったがすでに2人が食事中。昨日の絵に川の上にかかるブリッジ状の廊下があった。あれがここのレストランの朝食用のスペースになっていたのだ。
Nienburg/Weser(ニーンブルク/ヴェーザー)
(wed) 8 Jul 6:30
Hotel Weserschlösschen(ヴィエザシュロッセン・ホテル)の朝食の空間
なかなか洒落た計らいで涼しげ。ミューレントルス通りからミンデナーラント通り(Mindener Landstraße)という河畔の通りを上っていく。連邦道B215に合流。あとはひたすらSchleusenkanal Lahde(ラーデ運河)を目指す。
Leese(レーゼ)で215号は川の左岸へ。しかし真っ直ぐ441号の道を取りそれから川沿いの482号を辿る。曇天、強風、気温12℃。再び冬のような天気。非常に寒く小雨交じり、風が強いという条件下の歩行。寒くても足の為には休憩が必須。マットに横たわると風が幾分凌げる。見上げると大きな楓の木。末端は風に揺れて透き通る緑の色を微妙に変化させまた余白部分のようになる空の形が変化して面白い。大木自身は動かない。次々と小鳥が遊びに来て美声を披露する。牧場の馬も見上げる。緑陰を受けた墓石の数々、守人が雑草を手入れしている。時々訪れる何人もの人。動かなくても何十年も何百年も総てを見つめている。そこでこの木は僕に向かって言う。動き回って何がそんなに面白いのかと。なるほどじっとしていたって相手が動いてくれる。旅人はふとそう想った。木のほうが多くを観察できているのかも知れない。
長い森影となった。人っ子一人歩いていない。ハイデン発電所(Kraftwerk
Heyden)は巨大なエントツを天に伸ばしている。あまりにも大きいので原子力発電ではないと思うのだがドイツは止めたはず。まだ最後の発電を行っているのであろうか。
Lahde(ラーデ)運河
(wed) 8 Jul 17:50
ヴェーゼ川と並行するがこちらの方が川底が確保されているので通行には都合が良いのであろう。
キャンプサイト ラーデ(Campingplatz
Lahde)がヴェーザー川沿いの一等地にある。運河沿いの最高の景観。今夜はここにテントを張る。ここなら17時から大手を振ってテントが張れるし、シャワーも使える。8.5ユーロ。安いものである。受付の女性にタブレットの充電を依頼。
テントの中 その1
1mx2mx90cmの狭い空間ながら素敵な時間!夕食風景。
テントの中 その2
それにWodka(ウォッカ)、
3種類のsalami(パプリカ、コショウ、オリーブ
(全てにカラフルで軽めの燻製唐辛子入り))、
食後のデザート。
【53. 7/9(木) Lahde(ラーデ)運河からMinden(ミンデン)経由Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)まで】
徒然の記 ポーランド・ドイツの小鳥たちは・・black
bird:クロウタドリではないかと。
「苦労・タドリ」と読んでしまったが正確には「黒ウタドリ」でツグミの仲間である。Youtubeでさっそく聞いてみたが音質は近い。ただもっと現地の鳥たちは長く会話するように囀る。
こんな感じだ「あなた。いつまで寝ているのヨ。さっさと起きて子供たちのために餌を探してくださいな。阿佐ヶ谷のジェラテリアが行列だって知っていた? 美味しそうよ。買ってきてくださいな。」
これぐらいの長いセンテンスを「鳥語」で歌うのである。あぁ。もう一度収録に行きたくなってきた。
よほど人口が少ないのか背番号の大きい482号も高速道路のような仕様で村の道とは立体交差である。直線コースを取っているので側道が無い限り、車の道を行くしかない。ほとほと命が縮まる思いである。
町が近づいてくると、道は決まって迂回道路となる、そちらには進まず、町の中心へ進むようにする。歩く身にとってはずっと楽である。しかも店があるという点で一石二鳥である。ラーダー通りからそのままMinden(ミンデン)という大きな町に入った。
この町は不思議な町。川が交差している。西から東に流れるミッテルラント運河と、南から北に流れるヴェーゼ川が直交しているのである。橋を渡っているとき南方に山を発見した、ヴィーエン山地である。
ミッテルラント運河はエムマ川の支流でおよそ北海から600kmも旅をしてきてMinden(ミンデン)に入り、その50km東でHannover(ハノーハー)へ、さらに200km東へ。ブランデンブルク、ポツダム、ベルリンに至る壮大な運河である。
言ってみればこれぐらいの平坦が中部ドイツに存在することを意味する。幾つか山を越えればライン川の流域となる。この旅で初めての山はこれらの地域を分ける重要な役割を果たしていることとなる。
ただ、ヴィーエン山地を越えてBad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)に南下してもまだヴェーゼー川が流れていて驚愕した。実は東から流れてきたヴェーゼー川がBad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)ではじめて北向きに方向転換し、ヴィーエン山地を縫って北上するのである。そういう複雑な地形に温泉が湧いた。このためBad(バッドではない。バートは「温泉」を意味する。)という地名が付く。
Minden(ミンデン)からBad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)までの近道と思って選んだ森の道が山を跨ぐ道であったとは! 住宅街は上部で行き止まりとなってしまい細い山道が続くばかりとなった。それも物凄い急坂。今回の旅で山登りとなったのは初めてである。Google Earthの電波が途切れれば一巻の終わりである。磁石と自作地図などを頼りに頂上の稜線にようようにして辿り着く。レストランがある場所が頂上であった。着くと反対側の車道から登ってきた2人組みの男性と出会う。恐らく3kmほど手前で車を降り山道を登ってきたのであろう。盛んにストレッチをしていた。この2人と食事を共にしながら談笑。相手はビールを3杯も飲みながらもまだ粘っていたのでお先に失礼する。後で車で会ったのをみると一方はノンアルコールだったのかしらと不思議。
下山は長く、今回の近道は結局徒労ではなかったのかと悔やまれるが、なんと選んだ道がドイツcaminoであったことだ。今日のコースはドイツのJakobsweg(Jakobswege
in Westfalen:ノルトライン・ヴェストファーレン州の巡礼街道)とほぼ一致する。ヴィーエン山地をBad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)へ向けて下りているときに、「Jakobu!」と叫ぶ女性。。昨年フランス・スペイン・ポルトガルをご主人といっしょに2,000km歩いたという女性が声を掛けてきた。最初はなにがなにんやら分からなかったのであるが、ちょうどのcaminoの道をリュックを担いで歩いていたのでてっきりドイツcaminoを辿っている外人と映ったのであろう。車に乗れと言う。
この女性に会う前に山で会ったドイツ人が家から飛び出してきた。この道沿いに住んでいたのだ。選択肢の多い脇道の一つなのによくぞ出会えたものだ。奥さんも家から出てきて記念撮影。その後のこのcamino騒ぎ。駅まで車で送ってもらう間に「Jakobsweg」「Minden.-Soest」を検索しろと。要するに貴男はこれからはJakobsweg(ドイツ版camino)を歩くべきよと。
ヴィーエン山地を眺望
Minden(ミンデン)市内からヴィーエン山地を眺望
(thu) 9 Jul 8:55
(thu) 9 Jul 10:02
ドイツ初めての山である。
こんな景色は日本では普通であるが初めての坂道で、邸宅が山腹に点在する。
山の住宅街
(thu) 9 Jul 11:19
この後、行き止まりの標識が至る所に。
全て山道となってしまうため車は通行止めなのである。
峠道
(thu) 9 Jul 11:58
林道
(thu) 9 Jul 13:41
12:30-13:30の1時間は峠の茶屋に居た。立派なレストランであった。
Jakobswegの道であるため大勢のハイカーが雨を凌ぐため入室。
ドイツ人2人は乾杯を繰り返す。一方はノンアルコールだったのだろうか?
林道を抜けたあたりで再会。
Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)を眺望
(thu) 9 Jul 13:50
ドイツらしい風景である。
峠の茶屋で会った一人はここに住む。
Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)の通り
(thu) 9
Jul 18:44
Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)の中心街
(thu) 9 Jul 20:09
別荘群であろうか。瀟洒な家が列をなす。
どこの町でも中国料理店やAsien料理店はある。今回はAsienを選んだ。バイキングで食べ放題! 8ユーロとは安い。ガリガリに痩せていた身体が膨らみ始めた。
【54. 7/10(金) Bad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)からBielefeld(ビーレフェルト)まで】
Bad
Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)からDortmund(ドルトムント)までのmap
143km・・テント3泊 35.75km/1day・・ほとんど丘陵越え
赤線がJakobswege(巡礼路 3通りある)、茶線が小生のたどった道。
バート・エーンハウゼンのホテルでは朝食にワッフル製造器を使って目の前で作ってくれた。機械は家庭用に売っているらしい。上手く焼けずに端っこが欠けている。ままごとのようなスタイルに笑ってしまったが、ユーモアさえ感じる。
道がまっすぐ丘陵を登っていく。サイクリング道路が並行して備わっており安心できる。遠くを見渡せばジオラマの世界。そのまま電車を走らせたい位である。と思っていたらちゃんと電車が通った。驚きである。ドイツでは鉄道網がいたるところに伸ばされ町には必ず駅がある。
ジオラマの風景
(fri) 10 Jul 8:55
Bad Oeynhausen(バート・エーンハウゼン)からHerford(ヘルフォルト)への田舎道から
この景色のどかに電車が通る。
Herford(ヘルフォルト)を午前中に経過。美しい町である。
Herford(ヘルフォルト)の入り口
(fri) 10 Jul 10:47
切り妻など数種類の家が立ち並ぶ鉄製の大きなゴミ箱の中をくりぬいてベンチにしているには驚いた。座っている男性に聞くと”free”と言うのでそのイスに仲良く腰掛け教会を眺望。スケッチを始めた。
Herford(ヘルフォルト)のイス
(fri) 10 Jul 11:25
Herford(ヘルフォルト)の教会前
聞くとタダだという。このおじさんの横に腰かけて教会をスケッチ
奥さんがその男性を呼んでいた。観光客であった。
Herford(ヘルフォルト)の教会
(fri) 10
Jul 11:33
南北に3つの屋根が珍しい。ゴミ箱を利用したイスでスケッチ
旧市街は美しい町並み。今までにない高級なイメージ。ここで接着剤を買う。タブレットのカバーの磁石が外れてしまいスリープ機能が満足に働かなくなっていたのである。
さて次の大都市Bielefeld(ビーレフェルト)は驚いた。前後16kmも市街地が続く大都市であった。当然のようにトラムが走る。高速や鉄道をくぐってやっと旧市街地に入る。出るときもそのような感じで実に時間がかかった。町を抜けたのは20:30。
予定したテント場所よりさらに2km進む。Yakobswegと重なる部分がありスーパーと教会がある。wegのサイトにも詳細な地図がありGoogle Map と違って一回のダウンロードで概略図から詳細地図まで必要とする全エリアの情報がタブレットに入力される。あとはそれを拡大していくだけだ。教会は広大な敷地と墓地を有している。司祭館を訪れ例のお願いをしてみた。ゲストルームは無いがテントは庭に張ってもよいと快諾。早速フカフカの芝生にテントを張り就寝。
車中と駅前でも、非常に詳しく「Jakobsweg von
Minden bis Soest(ミンデンからゾーズトまでの巡礼街道)」のことを説明してくれたのである。ホテルで仔細にチェックした結果、本日泊まるテント場は「Bielefeld(ビーレフェルト)」の西のはずれのBrackwede(ブラックヴェーデ)にあるがcamino道に面したUmmeln教区の教会に決めた。庭先ならokであろうと。
予想通り事務棟に住んでいる女性から快諾を得て庭先にテントを張った。
【55. 7/11(土)
Bielefeld(ビーレフェルト)からGüterslot(ギュータースロー)Jakobsweg経由 Stromberug(シュトロームベルク)まで】
テント場とさせてもらった教会を後にし今回初めてのcamino道に沿ってギュータースローまでJakobswegを歩いてみることにした。
Photo 7:Bielefeld(ビーレフェルト)の朝
(sat) 11 Jul 5:27
教会事務棟の庭から Bielefeld(ビーレフェルト)内Brackwede(ブラックヴェーデ)
ビーレフェルトから次の町 Gütersloh(ギュータースロー)へは8km。ここで昨日のcamino女性に敬意を表すためJakobswegを歩いてみることにした。驚くなかれ、ホタテ貝が書かれた小さい10cm角ぐらいのプレートが道路標識の裏側やポールそのものに貼り付けてあったのだ。今までも何回か交差しているはずなのに気付かなかった。曲がるときはこれに矢印が付く。これに沿って歩いてみた。国道などの幹線と違い実に静かなトレールである。歩行専用道路も発見。
Jakobsweg
(sat) 11
Jul 6:01
Güterslot(ギュータースロー)まではJakobswegをたどった。
このようなマークが何kmかに1個。
マラソン人や自転車も通るが車は殆ど通らない。個人宅の行き止まりもここではそのまま進めとなる。草地に僅かの足跡。藪もかき分けろと。池がひっそりと。道なき道も通らされ現地に着いたときはへとへとに。要するにここではYakobswegが主人公でこちらはそれに忠実になぞっていくという従属的な立場。5kmも何もマークが無い箇所もあり不安を煽り立てる。とても今回の長距離の旅には採用できないものであることを実感した。時間が幾らでもあり多少ゲーム的な要素を取り込む場合は面白いコースかも知れない。マーク以上にインターネットからダウンロードした詳細な地図が必携である。
ギュータースローの町では土曜日の朝市をやっていた。教会が10時に開くというのでスケッチなどしながら時間調整。次なる町Rheda-Wiedenbürg(レーダー・ヴィーデンブルク)は更に6kmばかり南西に進んだ所。標高は120mほど。Rheda町とWiedenbürg町が南北に連なり一つになった感。木組みの素晴らしい家ばかり。川に浮かぶ蓮はさながらモネの睡蓮。
絵のような町である。木組みの家屋群、モネを思わせる川岸。
Rhoda−Wiedenbruck(レーダー=ヴィーデンブリュック)の教会と木組みの家
(sat) 11
Jul 15:25
アイスクリーム屋があり大盛況
結婚式の隊列もここに寄ってさまざまなジェラート(氷菓子)を頬張る
レーダ川・・モネの世界
(sat) 11 Jul 15:26
Rhoda−Wiedenbruck(レーダー=ヴィーデンブリュック)にて
Rheda(レーダー)の木組みの家群
この通りには”人の群れ”を表現した彫像が立ち面白い
Rhoda−Wiedenbruck(レーダー=ヴィーデンブリュック)の人形
(sat) 11
Jul 16:05
このような像が町のいたるところに立っていて面白い
写真撮影風景(20,30年前の風景である。)
6kmほど進みシュトロームベルクの町に到着。城の跡がある広場に教会が建っている。牧師2人が別々の広大な館に住むと言うが20:30現在会えていない。イタリアンレストランで10時近く粘ったが館は暗いままで応答がなく、結局城壁の中の東屋の裏側をテント場とした。
要塞都市と言った感じ。城壁が公園となっていた。その公園から下界が見渡せる。闇にまぎれてテントを張った。
Stromberug(シュトロームベルク)からの眺望
(sat) 11 Jul 18:33
【56. 7/12(日) Stromberug(シュトロームベルク)からBeckum(ベックム)経由 Hamm(ハム)まで】
気温17℃というが小雨交じりの肌寒い気候。シュトロームベルク町の石畳の道をam5:00にそっと抜け出す。丘の上にあったStromberug(シュトロームベルク)の町は石畳で、靴音が響く。抜き足差し足で町の早朝を抜け出す。お城の公園の東屋の脇に隠れるようにテントを張ったのであるが、その前に司祭の館、2館を尋ねているが応答は無かった。しょうがなく公園にテントを張ったのであるがやはり気が気ではない。5時にはこの町を抜け出している。
Stromberug(シュトロームベルク)の朝
(sun) 12
Jul 5:08
日曜日であるので今まで以上に寝静まっているような感じ。L61街道も殆ど車が通らない。
Beckum(ベックム)への道
(sun) 12
Jul 6:56
ドイツ西側は徹底して日曜を休む。どのスーパーも開いていないのだ。昨日食料を大量に買っておいて良かった。ガスが少し入ったミネラルウォーターを買ったらしく炭酸の泡が出る。失敗の買い物。慎重に選んだ筈なのに蓋を開けるとき「プッシュー」と音がした。どこにも「mit kohlensäu(炭酸入り) 」と書いていないのに。まぁいいかこれも旅の道連れ
。しっかり飲むとしよう。
シュトロームベルクから7kmでBeckum(ベックム)という町。Beckumerベックマー通りはStrombergerシュトロムベルガー通りに名前を変えつつBeckum(ベックム)に一直線。Phoenixセメント工場の建屋が農場の緑の丘の上に顔を出した始める。Phoenix社の壁面にはセメント工場の説明図が8枚くらい掲げられていて分かり易い。Beckum(ベックム) は日曜日で閑散。
街の入口に店を構えるスーパーのEDEKA。店内のパン屋だけは開いている。よって朝から客が引きも切らずに朝食やランチ用のパンを買いに来る。不思議なことに男性が殆ど。旧市街地中央を貫通する目抜き通りは9時過ぎと言うのに人通りがない。大聖堂のある町もこれでは台無しである。
日曜日の朝9時 Beckum(ベックム)の町は閑散
(sun) 12
Jul 9:12
そこを抜け出しHamm(ハム)へと急ぐ。32kmの行程でも朝の出発が早いので午後3時過ぎには到着してしまう。Hamm市は、ノルトライン=ヴェストファーレン州の町で人口17万人の小都市である。テント泊ではあるが寒いので早くCafeに入って暖を取りたい。自作の地図では寄るべき店の名前として「Cafe ExtraBlatt」がある。その場所も素通りした。教会にまずはアクセスしなければ。これも不発に終わった。ドイツでは教会はよほどの事がない限り固く閉じているものであるらしい。ルーテル系の教会であったが来週7/18,19が大きな催しがあるとの貼り紙が。ここも司祭館は留守。「Cafe
ExtraBlatt」で時間を潰すも残り5時間を日記など書きながら思案しようとする。
川べりの公園を下見したがこの雨ではテント場を確保するのは大変である。雨は漸く21時ころ止んだのでテント場を視察。まだ十分に明るいため下見だけである。旅人はドイツでは何処でもテントを張ってもよいらしい。無関心の極みである。スケッチをしても覗きに来る人は僅か。自分の事以外興味なし。これは旅行者にとって大変都合がよい。幾つも教会があったが、全部閉まっておりDatteln-Hamm運河(Lippe(リッペ)川とは並行)のそばの体育館駐車場にテントを張る。雨がそぼ降る寒い日であったが、午後9時にはやんだ。10時頃、散歩中の近所の犬に目ざとく見つけられひとしきり吠えられる。困った犬だ。滞在時間は22:00から5:00までの7時間。容赦あれ。夜半に心配した雨もなく、コンクリートの上だったのでテントも床面が濡れることもなく、畳むのが簡単。
Hann-Heessen(ハム-ヘエッセン)
(sun) 12 Jul 14:17
郊外型のレストラン。木組みの家が美しい。
【57. 7/13(月) Hamm(ハム)からKammen(カーメン)経由 Dortmund(ドルトムント)まで】
ハム市では寝過ごした。起床は6:45。遅すぎるため朝食を取らず出発。昨日のレストランでピザを1.5人分も食べたためお腹は膨らんだままである。滞在時間が長かったのでピザ半人前を2回注文している。あろうことか2回目が店のミスで巨大な1人前が届いてしまった。会計は半人前でよい と負けてくれたお陰でお腹が膨らんだままであるのだ。さて話を続けよう。
Lippe(リッペ)川とDatteln-Hamm(ダッテリン-ハム)運河は並行する。川は大いに蛇行しながら広い河原を自由奔放に流れると言う感じであり、水運を確保するために真っ直ぐ運河を通している。
両方の水はライン川に注ぐ。それを右に見ながらハム市内を大きく迂回しながら61号を進む。E34と交わるICまで進んでしまったが500mほど行き過ぎた。Methler(メトラー)という小さな町を経由していよいよドルトムントの市街を目指す。
歩道 |
バス停の前だけ点字ブロック |
|
|
(mon) 13 Jul 7:10 自転車道はレンガ色。歩道は内側 |
(mon) 13
Jul 7:12 点字ブロックは殆ど無い。あってもバス停のみ。 デザインとして使われているようにも思える。 皆が助け合うので、日本のようには完備していなくてもokという |
ドルトムントまでの自作版最短ルートは少々複雑である。L61→Kamen(カーメン)→L61→K40→Methler(メトラー)→K40→L634→・・・→Kampstraße(カンプ通り).→Silberstraße(シルバー通り)の34km。距離が半端でない上間違いやすい曲がり角。2回も間違ってしまった。雨も降る。寒いが眠りたい。
ランシュトローパー湖を過ぎ、坂道を登ったところに林があった。雨が強くなってきたが、林の中は雨が降り注がず、休憩ができる場所があった。道に雨が浸みてくる気配ながら1時間ぐらいは持ったであろうか。ホステッダー通りを進むと鉄道を跨ぐ。Dortmund-Derne(デルナ)駅があったが、さらに進む。
ここでも道を行きすぎてしまいback。タブレットの電源が心配なので閉じたまま頭で記憶した道を行くとこのように失敗する。頭のメモリ容量が小さくなってきて来ているのかしら。
この近くを通っている地下鉄におとなしく乗っていれば良かったのであるが、さらに雨の中を進み遂にダウン。最後は雨の中カッパを来たままマットの上で寝てしまった。教会の敷地のなかであった。目の前にバス停があったので、ご婦人に聞く「センターに行けるのか」と。yaと応えるではないか。疲れていたのでバスに乗った。「セントラル1枚、」と。2ユーロと安すぎるがここで確認を誤った。当然ドルトムント中心街へという意味で聞いたのであるが・・。ここは「Lünen(リューネン)」中心街へという意味であったのだ。早合点してしまった。バスは大いに遠回りをしたあげくドルトムントなぞ行かずに「Lünen(リューネン)」中心部へと舵を北に取るではないか。「Jakobu通り」というのを2回聞いたのでおかしいとは思った。
ドルトムント中央に行く最寄りの地下鉄の駅を中心として地域内を循環をしているバスであったのである。「中心」という意味では間違ってはいないのであるが、途中バスを降りて地下鉄に乗換をしなければならなかったという次第である。バスの乗客は増えに増えたのに、ある駅では数人となり、それを繰り返しているようで、不覚であった。バスの中で「ドルトムントの中央街に行きたいのに!」と悔しがっていたら、運転手がここで降りろと地下鉄駅を指差した。もうバスはこりごりである。こんなことならずっと歩いていたほうがましであった。
今日はユースホステルである。早く着きたいのだ。トラムに乗ったが市内は地下鉄になってしまった。Google Mapが現在位置を表示しない。
Kampstraße(カンプ通り)駅で降り地上に上がる。なんとここも通りは人であふれている。カンプ通りもWestenhellweg(ヴェステンヘル通り)も車をシャットアウト。なかなかの街の設計である。観光客は安心して歩ける。よって人口密度が圧倒的に高い。
Dortmund(ドルトムント)市街
(mon) 13
Jul 15:37