ヨーロッパ横断紀行

ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜  太田 宏

07・・その1−ドイツ3(ドルトムント出発からアーヘン到着まで 7/14-7/20

58. 7/14() Dortmund(ドルトムント)からGevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)まで】

59. 7/15() Gevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)からSolingen(ゾーリンゲン)まで】

60. 7/16() Solingen(ゾーリンゲン)からKöln(ケルン)まで→7/17()

61. 7/18() Köln(ケルン)からGolzheim(ゴルツハイム)まで】

62. 7/19() Golzheim(ゴルツハイム)からStolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)まで】

63. 7/20()  Stolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)からAachen(アーヘン)まで】

 

 

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58. 7/14() Dortmund(ドルトムント)からGevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)まで】

ボナ ベティ(Bon Appétit)

ドイツではいつ頃からだろう。レストランやバーで、料理を出した時決まって「Bon Appétit (ボナペティ:どうぞお召し上がりください 。)と言う。誇り高いドイツ人がフランス語を使った。驚きである。

これは深く浸透しており道端で食事をしていると皆が笑顔で「ボナペティ」と言ってくれる。
チュース(Tschüss )

さようなら。をドイツ語でこのように言う。スーパーで支払いが終わった客に「チューズ」或いは「チゅス」 小生には「そこでもたもたせず買った商品をトートバッグなぞに詰めて早くどきなさい!」と聞こえるのである。客の殆どは巨大なカーゴに山ほど品物を買い、レジを通した後同じカーゴに再度詰め直して車まで運ぶものらしい。バーコードをくぐった商品がスロープに流れてくる。それを拾ってはカーゴに詰めていく。弾丸のように早い。もたもたしている人は誰もいない。バナナ、パン、缶詰めと個片を手に抱えているのは小生ぐらいなものである。俯いて歩いているときTOTOバッグを拾った。それ以来買い物は非常にスムーズになった。

 

Dortmund(ドルトムント)からKöln(ケルン)までの地図

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108kmを2泊3日。2泊ともテント。


 

 

DJH-Dortmund(ドルトムント)のユースホステルで

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(tue) 14 Jul 6:55

DJH(Jugendgästehaus Adolph Kolping:ユースホステル)の朝食。

300-400人規模の巨大なホステル。

 

Dortmund(ドルトムント)郊外

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(tue) 14 Jul 9:00

 

菩提樹(リンデン)の実が散り敷き、樹の周りを黄色に染める。

黄色い羽根にモミジのような実が付き、風に揺られながら飛んでいく。実を遠くにばらまくためである。秋の風情があるが、真夏の光景。

 

ドルトムントからは起伏の多い丘陵地帯。ここでは山岳地帯に近い。何処までも続くup

なぜか大きな町を出ていく時は決まってトラムの敷かれている道路を行く。町と町を結ぶ主要幹線にトラムが途中まで敷かれている。今回の旅は大体が都市から都市へと、その主要幹線の方向に向って進むから、偶然にも一致すると言える。バス停で待っている多くの人に、側の木の名前を聞いてみた。「Welcher Name ist dieser Baum? 」(ベルヘ ナーム ディーゼ バウム?)  この最後のバウムだけは解る。バウムクーヘンでお馴染みの単語の「木」であるからだ。一人の古老が進み出た。「それはリンデン(Linden)だ。」と。

菩提樹という木は釈迦ゆかりの木であるが、ドイツでは近縁のセイヨウシナノキであろう。フランツ・シューベルトの歌曲「菩提樹("Der Lindenbaum")」に歌われている。なぜ聞いたかと言えば、この季節葉っぱは緑色なのに、道が、真っ黄色に染まるからである。紅葉の実はそれを遠くに飛ばすようにプロペラが付いている。この リンデンは一枚の黄色い葉っぱを羽として飛ばすのである。よってこの黄色い(紅葉を思わせる)葉が道路や通路に散り敷くのである。

ドイツ全土でこのような現象である。宅地では皆が朝から竹ぼうきなどで落ち葉掃除に汗を流している。

 

途中Hagen(ハーゲン)という大きな町を経由。

Hagen(ハーゲン)の教会

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(tue) 14 Jul 13:52

立派な教会が通りの角にあった。

 

最初はハーゲン・ダッツ(Häagen-Dazs デンマーク風の名前であるがアメリカの会社)ゆかりの地かとも思ったがスペルが違う。その町のスーパーで相当量の買い物。テント泊の場合の朝夕の食料が必要でどうしても多くなる。夕食としては別に近くにレストランがあればそれを利用するがまだ分からないので買っておくのだ。

 

 

Hagen(ハーゲン)の線路

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(tue) 14 Jul 12:07

ドイツの鉄道網はすごい。ほとんどの町に鉄道が敷かれていいる。

 

Gevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)への道 雲が黒々

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(tue) 14 Jul 16:24

今夜も雨である。こんななか悲劇が起こった。

 

Gevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)にて・・ついにリュックが無くなるの巻

問題のGevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)にやって来た。

実は山に入ってテントを張るということは日本からの計画であった。テント泊予定の山の中。幹線道路とほぼ並行に走る鉄道をくぐり山に入る。これは計画通り。住宅街が途切れいよいよ林道となった。幾本も支線があるが真っ直ぐ山の上に至る道を選んだ。およそ400mくらい行った所でヘヤピンカーブ。少し開けた場所に出た。大木が4本。この一つを今夜は借りることにしよう。雨が降っても凌げる。この場所と決めて荷物を下ろす。しかしながら犬を連れた夫婦が散歩にやってきた。山麓に住むという。登り口に巡礼者を泊める家(Fröhlich Familie :陽気な家族)があるという。ぜひそこに行けという。まぁそこに泊まればホストから有用な情報が得られるかも知れない。これが奇跡の予感である。

 

重い方のリュック(雨用の青いカバーをしたまま。)を木にもたせかけ400mの道のりを降りて行った。くだんの家はすぐ見つかったが呼び鈴を鳴らして応答がない。この山の中にもJakobsWegなるcamino道が通っているのであろう。L7の幹線筋と山道に繋がる道路の角にイタリアンレストランがあったので立ち寄り夕食。貴重品はいつも小さなリュックに入れて身体の前に持っているか、リュックが無い場合は背負っている。Jakobswegにはホストファミリーが随所にあって旅人の世話や宿泊を提供している。レストトランの行き帰りで寄ってみたが留守のよう。しょうがなくリュックを置いた大木の場所に戻った。その場所は、ドイツ版camino(JakobsWeg ヤコブスベーク)であったという次第である。元の大きな木の所に戻ったのである。時刻は20:30 Fröhlich familyの家はまだ灯がともっていなく留守の模様。今日は諦めて大木の陰で眠るとしよう。

夜道の山を登っていった。空は曇り空。樹影で暗がりとなっている部分以外はまだ明るい。漸く平坦な部分に登りついた時だ。遠目にも木に持たせかけた筈の青いカバーのかかったリュックが無くなっている。これはまずいことになった。貴重品は全部小さなリュックにいれて担いでいるので大丈夫であるが食料・テント・寝袋・着替え一式が無くなったのである。誰一人居ない山中。泣きわめく。あぁ神様お助け下さい。最終的にはすべてお金で解決できるものの旅の終焉を決意。誰かが盗んでいったのであろうか。

山中では誰も頼れない。万事窮す。もし盗まれたのでなければ誰かが警察に届けたのかも知れない。頼るものとて何もない。どうしよう。

警察に呼ぶにも番号を知らない。

途方に呉れたとき思い出したのは山際に建っていた最後の家に駆けつけることだ。リュックの事を聞いて見よう。ひょっとして知っているかもしれない。呼び鈴を鳴らしても応答がない。もう日本語で叫んだ。「助けてください。リュックが無くなっているのです。知りませんか?」と。漸くドアが開いた。夫婦で飛び出してきたのだ。事情を説明。だが知らないと言う。藁にすがる思いで警察に連絡を頼んだ。電話をしてくれていたご主人の顔がやにわに緩んだのだ。なんとリュックは市内の警察署に預けられているとのこと。わーと泣きたくなった。家の人も同情をして一緒に行ってあげると。なんと、神様のような人である。車中こんな山奥にどうして皆と離れて住んでいるのですかと聞いてみた。物件が売り出されていたので買っただけであると。健康には最適であると。

小さな町であるが車を飛ばせば何でも手にはいるので不自由は無いと。市内まで車で10分ほど。散歩の人が親切にもリュックが置き忘れているとでも警察に連絡したのであろう。若い警察官が撤収したという。その大木こそJakobswegのマークが打ち付けられていたのである。テント場と決めた箇所は正にCamino道そのものだったのである。巡礼者が荷物を置いたまま下界のレストランに行くということは若い警察官には考えられなかった事であろうか。今後は置き手紙でもってしていこう。または肌身はなさず常に2つのリュックを担いで行動をしよう。

元の場所に戻りテントを張る。時刻22:00

この時間でも散策の夫婦一組、バイクのツーリストが8人もcamino道を通っていった。ケヤキの大木は十分に夜半の雨を凌いでくれた。

 

上を見上げるとJakobswegのマークが!

 

ケヤキの大木

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 (tue) 14 Jul 21:32

 まさか大木自身にJakobswegのマークがあった。この戻ってテントを張り終えて寝たという次第。

 


 

 

Gevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)署で

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(tue) 14 Jul 20:58

真ん中が若いお巡りさんで、リュックを撤収し、

署でリュックの中身を仔細に調べレポートを書いたであろう。笑っていた。

リュックの中身が全部入れ替わっていたからである。

 

Jakobswege(Westfalen)turbo717のルート

 

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平坦に見えるが手前が山(標高380m)

赤線Jakobswege245m位の等高線上を山麓に沿って西に向かっている。

テント場と交差していたのである。

 


 

 

59. 7/15() Gevelsberg(ゲーヴェルスベルグ)からSolingen(ゾーリンゲン)まで】

 

樹木の陰を5:00に抜け出す。曇り。気温13℃。肌寒い。

リュックが見つかって一夜明けたゲーヴェルスベルグの山の中。起床は4:30。朝食はサラダーバー(Salat Kunterbunt)、サバの缶詰(Makrelenfilets)、グレープフルーツ、パン類。すべてHagen(ハーゲン)近くのスーパーLIDLで買ったものである。

ドイツに入ってから見つけた「サラダバー」は、レタスを中心としていろんな野菜が切り刻まれていてドレッシングが付いている。ハムやササミなどが別の容器に入っていてそれらを混ぜ食すのであるがなかなかのお味。これがなくては朝が始まらないといっても過言ではないが、スーパーでこれを見つけるのが至難の技。

日持ちしないし、時間制限があるからである。すぐなくなってしまう。大型の容器の場合は一回で食べきれないので2時間後の休憩時間に食べるようにした。歩いている間に混ぜられてほどよく味が染み渡るが時間を置くと漬物のようにしんなりしてしまうため急がなければならない。

何をいつも急いでいるかと言えば、このようなリュック内の状況もあり、先行きの見えない不安が足早に駆り立てるのであろう。

 

ゲーヴェルスベルグからゾーリンゲンまで、選んだコースは余程のおたくしか通らないというか登らないコースのようで歩く人は居ない。車も少ない。標高345mの山を延々5kmも登らねばならない。覚悟はしていたがきつかった。下りで失敗。指示書と言うべき自作地図が車優先道路であったらしく側道を進んでいる間に違う町に入り込んでしまった。標高は常に150mくらいのup-downを繰り返すし、所々で高速道路仕様の道になるため、迂回を余儀なくされ挙句の果てに別の町Wuppertal(ウッパータール)市まで遠回りをしてしまった。こんなことなら山越えもせず最初からウッパータール市を廻っていればよかったと反省。

最初の道の取り方しだいでその日の工程の難易度は大きく変わるものであることを痛感。迷った道では、いろんなドイツの小都市を廻れて面白かったが・・。Google Map現在位置確認、目標設定、最短ルート検索などの機能があるため元に戻るのではなく、先に進むことができ便利。

 

Wuppertal(ウッパータール)市 Schubrtstraß(シューバート通り)の坂道

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(wed) 15 Jul 10:19

 

Schubrtstraß(シューバート通り)の標識

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(wed) 15 Jul 10:24

シューバート すなわちシューベルト(日本風の発音で)通り

 

 

Wuppertal(ウッパータール)の北部は谷底の町。こうなればGoogle Mapの出番である。現在位置を確認しつつ行くべき町を入力すると徒歩で54分と出た。谷底まで下りに下った標高を逆に何処までも登っていく。その辛いこと。約1時間のロス。

ウッパータール市南部のCronenbergt(クローネンベルグ)300m近い丘の上にある町であるがWupper(ヴッパー)川へは150m以上降りていかなければならない。道路もヘアピンカーブを何回も繰り返す急峻な道であった。最後のカーブのところで、別の丘に登っていくような登山口があった。そこで例のごとくマットを敷いて寝転んでいたら、パトカー(Polizei:ポリツァイ)がワーとそこまで上って来て止まった。私を逮捕する積もりであろうか。「大丈夫か?」と尋ねる。ヘアピンカーブの所で目ざとく小生を発見したのであろう。そのまま真っ直ぐ突っ込んできた。仕事熱心なお巡りであることよ。

細かい気配りに感動。日本でこんな経験はない。

 

さてゾーリンゲンの町に近づいた。丘の上に開けた町のようである。谷底に掛かる橋。日本によくある光景である。渓流に掛かる橋。人しか渡れない鉄橋(ブルッカー橋)を渡ると川沿いにBarがあったので立ち寄る。


 

 

Solingen(ゾーリンゲン)の橋

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(wed) 15 Jul 16:32

 

Solingen(ゾーリンゲン)入り口の茶屋の犬

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(wed) 15 Jul 17:08

 

 

今日もテント泊なので時間に余裕がある。丘の上の町。ゾーリンゲンにはトロリーバス(O-Bus)が走り回っている。狙った場所は野球場、テニスコートなどがある緑豊かな公園。なんと煌々とあかりが付き草野球チームが夜遅くまで練習をしているではないか。想定を上回る活況である。何チームも一緒にグランドの四隅を使っている。隣はまたテニスコートでこれも人だかり。

水曜日の夜である。しかし都市空間は不夜城に近い。あきらめて、ピザ屋に駆け込む。21:30オ−ダーストップというがじゃんじゃん電話が鳴るのでしょうがなく配達に行く親子。
ここで、相当粘り、タブレットの充電とblog日記を書いたりと。夜の帳がどっぷりと降りたころ、先ほどの運動公園に行ってみた。あたりは真っ暗闇で全ての競技が終わっていた。目星をつけた林の中でテントを張る。

翌日ケルンで指差し会話帳のドイツ語編を店に置き忘れたことを思い出した。久々の忘れ物である。

 


 

60. 7/16() Solingen(ゾーリンゲン)からKöln(ケルン)まで→7/17()

 

Solingen(ゾーリンゲン)の森に張ったテントを6:00ころ抜け出すが、すでにトロリーバスは一番客を乗せて走っていた。Cafeで少し寛ぐ。今日は大都市ケルンが目的地なので、心が踊る。
ケルン15km手前のLeverkusen(レーヴァークーゼン)市はバイエルン・レーヴァークーゼンのサッカーチームの本拠地。この16万都市には、旧市街地Opladen(オプラーデン)があり教会を中心として賑わっていた。

 

Opladen(オプラーデン)の町

 

Opladen(オプラーデン)の花屋

 

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(thu) 16 Jul 10:16

 

Opladen(オプラーデン)の花屋

(thu) 16 Jul 10:18

 

 

 

 

 

 

 

ケルン15km手前。

観光都市のような賑やかな旧市街地を通る。Oplarden(オプラーデン)である。自作地図ではそこで昼食と書いてある。まだ10:30であるがストーリトミューシャンが素敵な歌を披露している。ドイツ版さだまさしの感じ。ギターを鳴らしながら説得するように歌い継ぐ。

Opladen(オプラーデン)のさだまさし

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(thu) 16 Jul 11:23

ケルン12km手前。Rathaus-Galerir・・Wiesdorf(ヴィースドルフ)という隣町のショッピングモール。最初はケルンの一角と思ったが隣町。市庁舎がギャラリーとなっておりはなやいだ雰囲気。レストランが軒を連ね皆が寛ぐ。そこを弾丸のように駆け抜ける。まだ12kmもあるのだ。

 

ケルン10.5km手前。巨大企業バイエル社Bayerが独自にケミカル・パークを併設する巨大な工場群。8号線に2つも連絡通路が掛かる。名札をぶら下げた科学者達が闊歩する。

 

ケルン9.8km手前。道が段々太くなっていく。御堂筋を2倍にしたような道(L8)が真っ直ぐケルンに向かって南下している。幅広い芝生の公園が。ここで大休止。テント、寝袋などリュックのものすべてを虫干し。1時間程寛ぐ。本日3回目の食事。靴下も脱いで足も乾かす。久々の太陽だからだ。

ケルン入り口の大通り(L8)

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(thu) 16 Jul 14:14

その3.6km手前。27℃ 晴れ。ものすごい暑さ。カフェに飛び込む。クスクスを食べている人が「これ美味しいわよ」と勧めてくれるのでコーラ(fritz-kolaHamburgのメーカー産)と一緒に注文。料理が出てくるまでMülheim Freiheit(ミュールハイム フリーダム)通りをスケッチ。

 

 

Köln(ケルン)に入る・・Deutz-Mülheimer Straße 156

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(thu) 16 Jul 15:27

ミュルハイマー通り。

暑い日であった。クスクスを食べている夫婦に誘われ、

串焼肉が載ったクスクスを食す。

料理が出てくるまでビールと共に、スケッチ。

奥の陸橋は55aの高速道路。ユースまで1.5kmの地点。

 

 

ケルンへ。北からのエントリー

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(thu) 16 Jul 16:40

 

 

 

「ケルン」と発音してもドイツ人には殆ど通じない。「ö」は「え」の口で「お」を喋るようにと。大変難しくネイティブから教わる必要がある。むしろ「コロン」と言っておいた方が通じる。いよいよ ケルン。ユーゲンデルベルグ ケルン-ドイツ(Jugendherberge Köln-Deutz)に宿を取っているが、ここは第一に青少年の館である。バスで乗りつけた団体さん。数の勢いでものすごい。
大挙して夜のケルンに飛び出していった。

 

7/16() Jugendherberge Köln-Deutz(ケルン ユースホステル) ライン川の左岸に建つ巨大なビル。夕食6ユーロと信じられない安さ。21:00まで休んだあと川向こうの市内に繰り出す。何せ毎日32km以上歩いており疲れているのだ。若者のように夕食後連れ立って歩く元気は無い。明日もケルン。連泊である。

 

 

 

ユーゲンデルベルグ ケルン-ドイツ(Jugendherberge Köln-Deutz)の夕食

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(thu) 16 Jul 18:25

ここも300-400人規模の巨大ユースホステル

スペインの巡礼食(約10ユーロ)よりも安くしかも、お代わり自由

さすが高校生などの若者が大挙しておしかける訳である。

 

 Köln(ケルン)にて(南南東25kmにボン、北北西34kmにデュッセルドルフ。共にライン川で結ばれる。)

ケルンに丸1日と半分の滞在で見るべきものは。

おそらく大聖堂とHohe Str(ホーエ通り)Deutzer Brücke(ドイツァー橋)からの眺め。

いやここは1w間ぐらい滞在しないといけない場所かもわからない。DJH-ユーゲンデルベルグ ケルン-ドイツ(Jugendherberge Köln-Deutz)では2日連泊でも部屋の移動があったが、一人で部屋を占有できた。贅沢な話である。当然部屋は満艦飾で洗濯物がロープに吊るされ、さらにトレッキングシューズまでも洗って外に干してある。できればリュックも洗濯したいぐらいだ。夕食は6ユーロで食べ放題。こんな安いと外食するのがあほらしくなる。

ビールは受付で売っている。大人のユース? 驚きである。

この玄関にもJakobswegのホタテ貝のマークが。Köln(ケルン)→Parisへの巡礼ルートに当っているのであろう。

 

ホーエ通りはあきれた。全世界のブランドshop。服飾品のブランドshopが何百軒も店を連ねる。タブレットに店の名前をinputしながら記帳していった。なんとこれがアーヘンで役立つとは。
現地便り・・ケルン2日目717()誕生日をケルンで迎えるとは! Domの前にやってきた。確かに巨大である。グダンスクのレンガ造りの大聖堂と同等くらいか。スペイン・ブルゴスの大聖堂と同様の構造の複雑さ。尖塔にブツブツの突起があるのは同じ。様式に共通点がある。誕生日記念に大聖堂の塔に駆け上ろう9:00オープンを待つ。

足元の商店街(Hohe str Shlder gasse str.など)は医療関連のブランドショップが目白押し。 店の名前をピックアップしてみた。

Leverkusen,Roland,Ginatricot,Deiter,Tommy-hilfiger,Guess,Dauglas,Karstadt-sport,SportScheck,s.Oliver,Kaufhof,H&M,Zero,BB,C&A,kämpgenPeek&Cloppenburg,Marc O'Polo,Raphael,Humanic,Deichmann,Bonita,Anson's,Jack Jones,Veröffentlicht Moda,Gerry Weber,Zara,Tally Well,Jacobi,Schlösser,London Countess,O2,Veröffentlicht Moda,United Colors of Benetton,Tezenis,Vans,Mango,Europa Fashion,Gortz 17,Lush Fresh,Clarks,Neo,Pimkie,Review,Jack Jones,Promod,Accessorius,Raphael,Kiko,Black,Fossil,Geox,Biba,HIT Fashion,Geox,Calzedona,Tamaris,Michael Kors,Bvlgari,Sprit,Victronox,Lacoste,Louis Vuitton,4711,Hermès
など。 Kaufhofの百貨店でシャツを物色。パリに着ければ買うことにしよう。まだまだリュックの旅は続く。気温33℃。もうたまらない。Asianレストランに飛び込んだ。

 

Kölner Dom(ケルン大聖堂)正面

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(fri) 17 Jul 8:12
このずんぐりした巨大建造物を見よ!
ゴシック様式では世界最大の建築。高さ157mの尖塔。

 

40°の方向でスケッチ・・とスケッチブックには記載がある。大聖堂が200m四方の広場の真ん中に東西を長軸、南北を短軸で立っているとすると、左下(南西角度)から正面(西門)を仰ぎ見ていることになる。手前南塔は500段以上の階段で上に登れる。ケルン市内を眺望し40°置きに9枚を撮影し、写真の長軸を400ピクセルに縮小し2sec毎に動かしたアニメーションが上記のものである。お化けのように大きい。グダンスクの聖マリア教会の尖塔は80mでびっくりしたのに、ここはその倍もある。おったまげた。周囲に高層ビルが建ったので世界遺産抹消候補と聞いたが、なんの。そんなビルは川向うである。けっして景観を妨げてはいない。北塔には工事中の骨組みがあった。

 

Kölner Dom(ケルン大聖堂)ステンドグラス

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(fri) 17 Jul 8:27

 

 

聖堂前の4人

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(fri) 17 Jul 8:30

縦の線が特徴の建物である。

 

 

Kölner Dom(ケルン大聖堂)南面

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(fri) 17 Jul 10:37

の方向でスケッチ・・大聖堂の長軸方向を眺望。尖塔といってもこれだけずんぐりむっくりである。高さ157mも見た場合、如何に底辺が大きいか。右中央が翼廊。尖塔と翼廊の間にバイエルン窓がある。

 

聖堂の鐘

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(fri) 17 Jul 10:02

 

 

Deutzer Brücke(ドイツァー橋)から大聖堂と聖マルティン教会など旧市街を眺望

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(fri) 17 Jul 15:20

ドイツァー橋からのViewは最高。

夜景や夕日の景色など数多くの写真がGoogle Earthに投稿されていて楽しむことができる。

 

オーデコロン

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(fri) 17 Jul 10:15

 

オーデコロン(ケルンの水)の発祥の土地?スプレーが置いてあり皆、身体中に吹きかけている。実はこれはshopで、本店はGrockengasse(グロッケンガッセ)4にある。Hohe Str(ホーエ通り)からブリュッケン通りに折れ、そのまま真っ直ぐ行くとグロッケンガッセ通り。ナポレオン占領下の住居表示4711が店の名前となっている。本店では蛇口からオーデコロンが流れている。

 

Hohe Str(ホーエ通り)

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(fri) 17 Jul 11:09

 

 

KDライン下り観光船

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(fri) 17 Jul 15:02

 

 

61. 7/18() Köln(ケルン)からGolzheim(ゴルツハイム)まで】

 

Köln(ケルン)からAachen(アーヘン)までのmap

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歩行ルート84kmを2泊3日。32x2+20という勘定。

右がケルン。左がアーヘン。左下の濃い緑が、Naturpark Hohes Venn Eifel Park(ホーエス・フォン・アイフル自然公園)である。

 

ケルンのユースホステルDJHを出て、ドイッツァー橋を渡る。ライン川からは、Groß St. Martin Kirche(聖マルティン教会)の城郭型の塔やKölner Dom(ケルン大聖堂)が一望でき何度見ても素晴らしい。その橋を真っ直ぐ西に進む。

L111は途中南に折れ、さらにリンデン通り、バッヘマー通りを進み、Hiroshima-Nagasaki-Park(ヒロシマ・ナガサキ公園)(ドイツと同じ敗戦国の原爆の悲劇を悼んで命名されたという。)の中を通る。

バッヘマー通りが、3本の通りに分岐する箇所で、ハンス=ザクス通りを選び北上すると、幹線の264号に到達する。

通りの名前はDürer Str(デューレナー通り)と呼ばれるぐらいで、真っ直ぐDüren(デューレン市)へと続いている。


Köln(
ケルン) Hiroshima-Nagasaki-Park(ヒロシマ・ナガサキ記念公園

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(sat) 18 Jul 8:48

向こうはケルン大学。

 

Golzheim(ゴルツハイム)へ向かう264

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(sat) 18 Jul 12:41

この歩道がこの先の交差点を契機として突然途切れる。

自転車人は敢え無く敗退か左右に反れて行かなくてはならない。

歩行旅人は草道を行く。

 

Golzheim(ゴルツハイム)へ向かう264号からの空

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(sat) 18 Jul 12:26

マットを敷いて寝転んでいるので空を見上げる機会が多い。

秋空を思わせる鱗雲、いわし雲が現れた。

 

 

この道は名にし負う幹線道路で高速道路仕様の道であった。そんなこととは露知らず。側道が途切れても草道を歩いて数10kmGoogle Mapで自転車道を検索し、そこへ迂回すべきであった。いくら遠くてもそのほうが安全である。

最短ルートでも32kmの行程なのに、迂回していたら今日中に到着できないかもわからない。道も複雑でタブレットを睨みながらの歩行となってしまう。まぁずうずうしさが優先しそのまま進んだが怖かった。車は100kmspeedで飛ばして行くので、こちらはガードレールに手を触れながら進む。咄嗟の時に掴めるようにするためである。血の気が引く2時間であった。魔の9kmを強行突破する事にした。通常2時間以上掛かるところ急いだ為なのか1時間半で到着。漸く歩道が併設される道となった。

 

飛ばすように歩いたため普段は時速4kmなのに、時速6kmと心臓の鼓動に比例して距離が伸びた。それでもテント予定のGolzheim(ゴルツハイム)到着は20:03となった。

一軒のBarGasthaus & Hotel zur Löv」があった。そこに長袖ランニングを着込んで乗り込んだ。襟なしのTシャツ汗付きでは余りにも失礼である。最近そのように感じた。71日から突然夏となったので以降は半袖で日中は過ごしている。襟があったほうがよりフォーマルである。ポーランドで待遇が良かったのも服装が影響していたのかも知れない。さてそこの女将。食事は出来ないという。ではビールだけでもと2時間ほど粘る。壁際のコーナーでは4人の地元民がサイコロを振っておいちょ株をやりながらのビール。こちらも負けじとお代わり。何杯飲んだことだろう。おつまみとして、ハムやサラミなど盛り合わせをサービスしてくれる。

 

 

 

Golzheim(ゴルツハイム)Bar(Hotel Zur Löv)のサービス

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(sat) 18 Jul 21:17
ビールしか注文していないのにいろんなサービスを受ける。

 

 

 

別れ際にテントの場所を相談すると指を差していい場所を教えてくれた。もっと遠くに行く筈であったが近くに公園がありレンガ小屋を見つけた。それと大木の間の隙間を得てテントを張る事が出来た。感謝。夜半に大雨。


 

62. 7/19() Golzheim(ゴルツハイム)からStolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)まで】

 

7/19() Münsterbusch(ミュンスターブッシュ)にて・・

ゴルツハイムの翌朝は大雨。先日のような浸水騒ぎにはならなかったがこのままではヤバい。4時にテントを畳み出発。暴風雨の中を果敢に進む。出発は520分で、通りに人はいないが、車が1台向かってくる。幽霊のようにボーと突っ立ったままそれを眺めている小生を見て驚いたはずである。行く手を目で追ってみると近くの農場の玄関に止まった。おそらくケルンで放蕩を続けた若者がたまに実家に戻ったタイミングではないだろうか。家に帰るなり「幽霊を見た」と報告したかもしれない。

半時ほどたったころだろうか。雨の中薄靄の中を1台がこちらに向かってくる。歩道専用道路なのに、通れるのかしら。怪しい人影を監視しにきたに違いない。まぁ、想像の域を出ないが。それほど閑散とした朝の雨である。

余りの寒さに震えあがる。

次の町、Merzenich(メルツェニヒ)のバス停で雨宿りしながら本日最初の食事。約1時間かけてゆっくり朝食。この間にも豪雨のような激しい雨が。テントを早く畳んでおいて良かった。サラダボックスを開ける手が寒さで震える。雨の中をさらに西へ。 大きな町Düren(デューレン)に入った。

ここは、Naturpark Hohes Venn Eifel Park(ホーエス・フォン・アイフル自然公園) のおひざ元で、自転車愛好家のメッカでもある。丘陵越えのルートがいくつもありサイクリストを惹きつけているのであろう。

今日7/19(sun)はその大会があるらしく、広場にイスが並びだした。当方は、晴れ間がのぞいたのでびしょびしょのテントを広場に臆面もなく乾かす。



Düren(デューレン)カフェ

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(sun) 19 Jul 9:07

雨が止んだ直後。パン屋は日曜日でも大忙し。

外のテーブルは客がかってに広げる。

 

 

 

Düren(デューレン)→Eschweiler(エシュ ヴァイラー)→シュトルベルク Stolberg (Rheinland)といったように沢山の町を縫っていく。264号を西に進く。

 

Badesee Düren-Gürzenich

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(sun) 19 Jul 11:23

釣りをしている男性は、テントを張って1日中粘るようである。

50cm-1mの巨大な魚が釣れるらしい。釣れてもすぐリリースすると言っていた。

 

これも道

 

 

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(sun) 19 Jul 11:43

水没してしまっている。

この道は靴を脱いで歩くべきであった。

相当の深さと勘違いをし、大いに遠回りをしてしまった。

ロスタイム1時間。

 

 

 

今回も途中で歩道が無くなり物凄いspeedの車ばかりとなった。このため予定を早め田舎道へ分け入る。なかなか快適な田舎道。caminoのようである。

 

途中のエシュ ヴァイラーからはK18という市道を進む。

Nothberger burg(ノートベルガー城)

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(sun) 19 Jul 15:47

Eschweiler(エシュヴァイラー)市のNothberger

Burg(ブルグ)Berg(ベルグ)は城や都市を表わす。

 

 

 

ヒュッヘナー通り、ツェツィサエン通り、ブルク通り、エシュ ヴァイラー通りを経てL238号に出る。

 

ミュンスターブッシュに到着。McDがあることを確認して、丘へのヘヤピンカーブを登っていく。樹林帯が両側にあり、そのどちらにも踏み込んでいく。南の方の樹林帯に平坦地をさがした。テント場は、草がなく腐葉土だけの床である。上等過ぎる。テントの底が濡れることなく畳めるのである。

その場所を記憶。その足で再びMcDに戻り、夕食となるハンバーグを食す。ここで長時間粘る積り。バッテリーを充電するためのプラグの場所を探す。他のMcDに較べ極端にコンセントが少ない。ドライブスルーも兼ねているため店員は忙しそうである。

 


 

63. 7/20()  Stolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)からAachen(アーヘン)まで】

・・

さて、今までの距離はおよそ2000km。残り500km。日程も旅の3/4は終了した。

ミュンスターブッシュの起床は5:23 気温14℃ ここを抜け出して8kmくらい行った所で悲劇が起こった。

この日 720日朝815分までは旅は一見順調であった。8:15-8:4025分間の間に、あろうことか、今まで背中に背負って来たリュックがスーパーの前で盗まれたのである。大事件である。今までワルシャワ、グダンスク、ハンブルグ、ケルンと旅を中断する機会は数多くあった。けれど、今回の事件で真底、旅は終わったと感じた。

それまでの経過は・・
6:00 Aachen(アーヘン)の隣町、Stolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)の樹林の中のテント場を6時に出発。

Stolberg (Rheinland)(シュトロームベルク)の朝

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(mon) 20 Jul 6:09

 

 

 

L221街道はそのままアーヘン市Eilendorf(アイレンドルフ)地区に入る。

7:20 アイレンドルフはそのまま歴史保存地区である。L221はそれを大きく迂回するように底辺をかすめていく。予定通りこの旧市街の中心にある教会に進み出るために路地を縫っていく。目指すPfarrkirche St. Severin(教区の聖ジーヴァリン教会)がひっそりと建っている。町全体は静まり返っている。

7:50 facebookのメッセンジャーが何回かコールがありそれに応えたりする。

7:58 教会のスケッチを終える。

 

 

 

 

 

Pfarrkirche St. Severin(教区の聖ジーヴァリン教会

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(mon) 20 Jul 7:58

Eilendorf(アイレンドルフ)地区の教会

絵を描いていた場所の近くにベンチがあった。そこで朝食。8時でも町は寝静まったように静かであった。教会前にあった高齢者センターで僅かに人の出入りがあったぐらいである。元の街道に戻った所で事件は起こった。

 

8:15 スーパーALDIがあった。アーヘン町中に入るため買い物もする必要が無かったのであるが水とバナナを仕入れてみようと思い立った。リサイクルボトルの機械を通して15セントのバックがあるのかもチェックしたかったのだ。そこを出たときにリュックが無くなっていたのである。
この際、道路ぎわの菩提樹の下にザックを置いて、買い物のために入店。店自身は空き地を利用して2005年以降建てられた新しいもので、道路には面していない。駐車スペースとなった通路を通って奥に引っ込んだ店に入っていく。水、バナナなどを購入。

8:34 ペットボトルのリサイクル料金を確認。

 

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リサイクルのチケット

 

(mon) 20 Jul 8:34

1.5Lのペットボトルは0.25€

レジではこれを読み取り合計額から減額してくれる。

 

 

 

8:40 店を出て街路樹脇に戻る。あろう事か。本当にリュックを盗まれた。L221に面したスーパーADIL。道路際の街路樹(リーデン)の脇。落ち葉が散り敷いた綺麗とはいえない根元である。ツツジの脇に置いてスーパーで買い物。戻ってきたらリュックが無くなっていた。心の中で泣き叫ぶも、ひょっとしてと、スーパーの駐車場、店内など探しにダッシュ。

 

道路の反対側のcafeで話し込んでいた人に助けを求めた。30分程してAachen(アーヘン)から3人が乗ったパトカーが到着。大変絞られた。こんな所に置いては駄目ですよと。盗まれてからの反省では当然であるが、置く方の身としては早く身軽になってスーパーに飛び込みたい。小さなリュックでもそれを持ったまま店の中に入ることはエチケット違反とされるお国柄。奇特なおばさまが最寄りの警察に届けようとしているのかも知れない。明日am8:00Aachen警察に電話することにしていったん解散。こちらは途方に暮れたままである。イタヅラだとしたら生け垣に隠れるようにして捨てられているはず。近所やスーパー駐車場を駆け足で捜す。しかし今度こそ出て来ないのかも知れない。散々注意されていたのにも拘わらず。当方のミスとはいえこの喪失感は大きい。あぁ!

後で考えたが毎日スーパーを3回利用するとして200回以上利用している。入口と出口は違い一方通行である。店の中に置いた場合も含め一旦置いたリュックを監視するのは一苦労である。いままで盗られなかった方が不思議である。アーヘン直前で、ある人がこのリュックに価値を見い出してしまったのだろう。これより以西その気で観察すると実に多くの目が狙っていたことが分かった。

スーパーの駐車場に2人位うろついているのである。スキなど見せたら一発である。今後はリュックも背負いながらの買い物となろう。

 

ペットボトルなどの資源はリサイクルが義務づけられている。これを例に取ると1500mlまでが15セント。ミネラルウォータを買う場合はこの価格が上積みされている。スーパーなどへ使用済みのを持って行くと機械が読み取りレシートに印字する。買い物価格からその分が減額される。要するに「金目」である。浮浪者でなくても、誰もがゴミ箱を漁っていくのはこういう事情である。観光客などは皆知らずに飲んだペットボトルを捨てていくのだ。リュックには当然ペットボトルが結わえ付けられていた。

御託を述べるのはこのぐらいにしよう。おそらく神様がお隠しになったのであろう。誰も恨まないことにした。何か試されている旅行となった。どうする?これから?

木は若い菩提樹(リンデン)、小ぶりのつつじもあるが、落ち葉が散り敷いて決して綺麗とはいえない街路樹下。

だが、L221の道路はすぐそば。

8:45 道路反対側のcafeに座っていた2人、話し込んでいた1人に事情を説明し、警察に電話してもらう。

 

9:09 証拠写真を撮っておく。

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Before-After

(mon) 20 Jul 9:09

 

 

 

9:20 アーヘン警察のパトカーが到着。女性警官1人、男性警官2人の3人組である。事情聴取を受ける。被害届と明日署に電話という形で別れる。絶対出てこないだろうという予測。市内へはどの番号のバスに乗っても連れて行ってくれるとポリスは言う。明日8:00に部署に電話しろという。

 

さて、半袖とタイツだけの軽装のままである。リュックを背負っていれば様になる装束もこれだけでは心もとない。不幸中の幸いで、重要書類は全部35Lオスプレイのザック(ザックA)に手持ちしているため大丈夫である。ただし悔しいではないか。

9:40 周辺1kmのゴミ箱を探す。通りを掃除している女性にも事情を説明。全員泣いてくれる。

10:05  途方に呉れていても始まらない。貴重品と着ているスポーツウェア以外は何も無いのである。着替えを先ずは買わねばならない。Tシャツ姿のままバスに乗り市内へ。バスを中心街で降りると温泉の匂いがした。テルマエロマーエではないがCaralus Thermen(カルロス テルメン)というスパに行きたかったのであるが今回はバス。大聖堂の近くはケルンと似ていて衣料のブティックが並ぶ。パトロールしていた地元の青年に聞くと「Galeria」の2階にスポーツ関係の衣料があるとのこと。その店でまずはレインコートとなるべき上着を購入。次は「Sporthaus Drucks」の店を教えてもらって長袖ランニングシャツやポンチョなどを購入。薬局で耳栓。電気屋でスマホやタブレット用のACアダプターなどと。何も無いので1から出直しである。

今後を考えた。歩き続けるためには簡単な防寒具が欲しいと。止めるにしても、空港までの服装は必要である。何か買わねば。と。

10:20 Galeriaで雨具用のヤッケを入手(39.99€)

 

 

 

 

 

Aachen(アーヘン)の町

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(mon) 20 Jul 10:50

フリードリッヒヴェルヘルム広場の近く。カピツィナーグラーベン通り。服飾専門街のWirichsbongardstraße(ヴィクスボンガード通り)は画面右側。

 

 

Aachen(アーヘン)大聖堂正面

 

Aachen(アーヘン)大聖堂ステンドグラス

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(mon) 20 Jul 10:55

(mon) 20 Jul 10:58

 

 

11:00 Sportshaus DrucksT-シャツ(Long ショート)を購入(44.9€)

 

少し欲が出てきた。ひょっとして歩き続けられるかもと。

11:20 同店で、極小ザック(B)(McKinley Vancouver 15L)、靴下、ポンチョ、トレッキング用ズボンを購入(140€)

14:00 宿泊A&O Aachen Hauptbahnhof(A&Oアーヘン ハーフトバーンホフ)にチェックイン 洗濯。

16:00 薬局で耳栓。電気屋でスマホやタブレット用のACアダプター(8.99€)を購入。

16:30 市内観光、スケッチ・・全部新しい装束で(ズボン、Tシャツ、ロング、小型リュック、靴下)

Aachen(アーヘン)大聖堂

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(mon) 20 Jul 16:48

そぼ降る雨の中をスケッチしていると、男性3人が覗いてくれる。

すべて新調した着物であると、事情を説明すると、New Face!で絵を描いているのか。と

 

 

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17:30 夕食

Besitostapas y masで夕食(25.3€)

(mon) 20 Jul 17:30

傷心の夕食であるが、もりもり食べていることがわかる。

ちゃんとビールを飲み、山海の珍味(?)を戴いている。

 

スーパーで食料などを買い込む。しかし新調した極小ザック(B)(McKinley Vancouver 15L)がすぐ満杯となってしまった。ザックAと極小ザックBでは旅を続けるのは無理と判断。

夜寝ながら考えた。「ポンチョだけでベンチに寝る」というのは間違いではないかと。寒くて凍え死んでしまう。日本の真夏であればOKかもわからないがこの地は朝晩は寒い。とても耐えられないと。

旅は続けたい。しかしあらためて全てを買い揃えるのか? 全部ホテル泊か?

 

野宿の場合は、すべてを買い揃えなければこの極寒の土地では、無理である。さてどうする?

 

これを自問自答している間に結論がでた。旅は続けよう。あと500kmだけである。しかし装束としては全部揃えよう。スポーツショップの開店時間は10:00である。10:30までに全部揃えて出発しなければ今日の行程は消化できない。急げと。

 

買うべきもの・・60L-70Lザック、テント、マット、ザックカバー。ナイフ。

 

翌日(7/21(tue))購入したもの・・McKinley(マキンレー)ブランド-Yukon(ユーコン)60+10(ザックカバーはザック底に仕舞われている)129.95€

          テント(TrelZeltArium) +マット(2mx1m) 99.95€

          ナイフ 12.95€   476.73€の出費となった。痛い!

いままで爪に火を灯してきた生活は一体なんだったのか?と頭をかち割りたくなった瞬間である。

元気を出そう。また一歩からの出発である。

 

しかしここでもまだ失敗はある。寝袋をどうして買わなかったのかと。結局朝方はからと低温のためテントの中でも耐えられない寒さ。これも数日後に気付いたのであるが、海外旅保険に入っていたため無くなった分はあるていど保障されるのではないかと。警察の調書の控えはあるのか? いやない。これも失敗のうちのさらなる失敗!

あぁ、わが人生って。こんなドタバタの一生であった。