ヨーロッパ横断紀行
ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜 太田 宏
09・・その1−フランス1(クーヴァン出発からパリ到着まで 7/27-8/9)
【70. 7/27(月) Couvin(クーヴァン)からベルギー・フランス国境→Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)まで】
【71. 7/28(火) Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)からRethel(ルテール)まで】
【72. 7/29(水) Rethel(ルテール)からBazancourt(バザンクール)まで】
【73. 7/30(木) Bazancourt(バザンクール)からReims(ランス)まで、7/31(金)】
【74. 8/1(土) Reims(ランス)からPassy Grigny(パッシー=グリニー)まで】
【75. 8/2(日) Passy Grigny(パッシー=グリニー)からChâteau-Thierry(シャトー=ティエリー)まで】
【76. 8/3(月) Château-Thierry(シャトー=ティエリー)からMary-sur-Marne(メリーシュル=マルヌ)まで】
【77. 8/4(火) Mary-sur-Marne(メリーシュル=マルヌ)からClaye-Souilly(クレイ=スイイ)まで】
【78. 8/5(水) Claye-Souilly(クレイエ=スイイ)からParisまで】
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ヨーロッパ徒然
フランスの歩道
やばい! 本当に自転車道はおろか歩道の無い国道だらけである。村には歩道があってもすぐ途切れ車道だけとなる。では人々は村から村々へは歩かないのかと。「なぜ歩かねばならないのか。車があるではないか。」と。そういう応えが返ってきそうである。ポーランド、ドイツ、ベルギーを見よ と私は言いたい。自転車大国のフランスは車道をプロが走ることで十分なのであろうか。
草道はある程度確保されているが歩きづらい。少し考えてみた。フランスには川沿いや運河沿いの道、GR65に代表されるようなトレイルコースが5万と用意されている。なぜわざわざ車道を歩かなければならないのか。遠道でもトレイルコースを歩きなさいと。おそらくこれが回答であろう。
ではポーランド、ドイツはなぜ殆どの道に自転車道と歩道を併設しているのであろうか。逆な答えとしてはトレイルコースがあまり無くサイクリングなどでは国道併設の自転車道を使いなさい という意味ではないだろうか。「国民皆健康施策」の一環として全ての道に原則として自転車道と歩道を併設したのでは無いだろうか。国が違えばこのように施策が違ってくる。
フランスの小鳥たち
フランス側の小鳥たちは余り歌が上手でない。今思えばポーランドとドイツは夢のような世界であった。鳥たちが競い合って美声を披露するのだ。音域はコロラトゥーラソプラノまで。皆がRezitativ(レチタティーヴォ)を歌うのである。森ではその競演で夢の世界。そこで考えた。ドイツ音楽の生みの親はこの小鳥たちではなかったと。作曲家はこれらの小鳥たちの音楽を楽譜に残そうとした。或いはそれ以上の音楽を作曲しようと邁進したのではないかと。
その他凄まじい気象。ティンパニーが活躍する場面である。
もう音楽そのものをポーランドやドイツから感じた。
渡り鳥だとしたら季節を追って北上していったのでひょっとしてフランスでも3月ころは鳴いていたのかも知れない。研究テーマである。とにかく日本では聞かない小鳥たちの音楽。
【70. 7/27(月) Couvin(クーヴァン)からベルギー・フランス国境→Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)まで】
Couvin(クーヴァン)の高速道路の建設現場を6:30に抜け出した。まだ誰も活動していない。N5ルートを1kmほど歩く。「N」が付く国道は歩くのは危険というが早朝は空いているしすぐ町に入るためspeedを落とす。
スーパーLidyがあったが8:30 openと書いてあった。余りにも遅い。国境越えは11kmの森。このため水と食料はなんとか確保したい。町外れのガソリンスタンドがミニスーパーを兼ねていると町の人が教えてくれた。ここからのルートは2つ。N5とN920。距離は殆ど変わらないため圧倒的に車の数が少ないN920を選んだ。森は500mばかりの標高であるが一気に登りきったあとはなだらかな高原ハイクの気分。
現在フランス側で途切れている道路が12km位の峠の道と並行して延伸しCouvin(クーヴァン)まで繋がるのであろうか。記念すべき行程であった。寂しい筈の長い峠道が、今工事のために頻繁に作業車が行き来することとなっている。木が切り倒されベルト状に開けた空間がづっと続く。ポーランド・ドイツで経験したような国境を示す標識などはなく、小さな交通標識のみであった。雨の中ちょうどそこで昼食をとっていた位置が国境であった。
フランス側に10時頃入る。小糠雨。寒い。Gué-d'Hossus(ゲ=ドスー)の村を通った。である。国境の村であるがちゃんと教会があり開いていた。雨宿りの為にも寄ってみたかったのである。中には10人くらいの老弱男女が居た。聞くとワックス掛けのために集まっているのだと。おやつの時間になったので入り口に集まっていた。談笑しながらもコーヒーやお菓子のもてなしを受ける。フランス人は一般的に陽気である。笑顔が絶えない。
道は「D985」に名前を変え更に「D877」となってRocroi(ロクロワ)の町を巻くように南下していく。
フランス側の最初の町、Rocroi(ロクロア)では驚いた。五稜郭のような要塞都市である。深い堀と城壁が町を取り囲む。道路はそれを避けて例のごとく大きく迂回して南下している。町の中心に寄らなければ決して気づきはしなかったであろう。雨が降り続く中を町の中心部に進んだ。レストランがあればランチにする為である。一軒だけぽつんと開店していた。「Le Plat du Jour:本日の料理」というやつを頼んだのになかなか出てこない。後で入ってきたリュックの夫婦の方が早く食べ始めた。貝のムニエルで何百個というカラス貝が黒い鍋のまま出てきたのには驚いた。夫婦は熱いのを手づかみで食べて貝をすすっている。玉ねぎを一緒に煮込んだ美味しい料理。さすがフランス!
この夫婦、オランダ人から来たcaminoである。ここからVézelay(ヴェズレイ)まで10日かけて歩くのだという。実はこのコースはNamur(ナミュール)からスペインのコンポシテラまで通じている道であると言う。この城郭の町ロクロワがフランス側のcaminoの出発点となっていた。
フランスではGR654に当たる。http://pilgrim.peterrobins.co.uk/routes/mapping.htmlなどが詳しい。本はGR 654 – Chemin de Saint Jacques de Compostelleで探せる。
Namur(ナミュール)からMontréal-du-Gers(モンレアル・デュ・ジェール)(MoisacからのGR65の途中に位置する町 )まで1750km。
この夫婦から「N系」の道は危険であるので歩かない方がよいという。因みに「E系」はEuropkan roadで車onlyの高速道路を意味する。当初N51を南下してから田舎道に入る予定であったが大きく迂回しナンバーも何もない田舎道を行くことにした。何と前を先ほどの夫婦が歩く。物凄い速さである。なかなか追い付かない。駆け足でやっと追いついた。途中の休憩時に聞いてみると50歳,51歳のコンビでバカンスを利用して初めてのcaminoであるという。Reims(ランス)まで行った後は南下してヴェズレイに行くのだと。テントだけの旅。1日30-40kmと強腱。Reimsと言えば小生の目的地でもあるが彼らは休みなしで4-5 時間歩く人達なので付いていった場合は足が壊れる。
恐ろしく速く歩く夫婦である。初日故に元気溌剌なのかもしれない。奥さん指導型のチームであった。小生は今夜のテント場Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)へむけて途中で別れる。
彼らはテント故、1日中歩き続ける。よって30-40kmをこなすという。10日でVézelay(ヴェズレイ)を目指していた。途中のL'Echelle(レシェル)まで合計15kmほど同行した。
途中、物凄い森を通る。静かな丘陵地帯は車道と違って魅力的。難関中の難関なるも当方が選んだ道も同様。こちらはマークが無いのでメートルの測定とcompassとGoogle Mapが欠かせない(ベルギーnetのインターネットが切れているのでtabletにキャッシュされている地図だけが頼り。これでもなかなか使える。)
彼らと別れてからからも田舎道を行く。村はVillaine(ヴィレーヌ)とVaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)が隣接。”Vaux”が付く方がより山側にある。テント場所はOSM(Open Street Map)に道の表示が無かった場所であるが地元の観光案内図をみると山岳コース一周の途中。時刻は19時を回っている。暗い森に入るには躊躇したが頂上部の平坦地は開けていて麦畑となっている。夕陽が魅力的な場所であった。絶好のみテント場所である。21時就寝。朝方は震えるほどの寒さであるので最近はリュックを「履く」ようにしている。足を、空っぽにしたリュックに突っ込むのである。これがなかなかの効果。ポンチョが上、リュックが下と寝袋無しで極寒を耐えている。気温8℃。日本では信じられない寒さである。
ベルギーのビール
(mon) 27 Jul 6:50
あれだけ有名だったベルギービールを正式には飲んでいないことをこの看板を見て初めて悟った。レストランで出されるビールを何の気なしに飲んでいた。惜しいことをした。
まぁ、それほど大変な巡礼路だったのだろう。
ベルギー・Couvin(クーヴァン)の朝
(mon) 27 Jul 7:03
道路はN5(E420)という大幹線ルートである。
町を通るた間は生活道路を兼ねる。ちゃんと歩道もつくのだ。
国境--峠の一軒屋
(mon) 27 Jul 9:06
道は、国道N5(ヨーロッパ道路E420)と分岐し、ローカル線のN920である。
どんな風に生活しているのだろう。水は?
麓から各々6kmもある。
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Rocroi(ロクロア)からVézelay(ヴェズレイ)までの巡礼路の地図 (mon) 27 Jul 16:20 これに依れば、Reims(ランス)経由である。 驚き!このコースは店がないため諦めて都市部のRethel(ルテール)を通るようにコースを東寄りにした経由がある。 まず3日分の食料をもてば何とかはなるが。 |
フランス・Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)の町並み
(mon) 27 Jul 19:06
【71. 7/28(火) Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)からRethel(ルテール)まで】
丘の上の麦畑に隣接したテント場所。夜半に起きてみると満天星。初めてである。ずっと天気が悪く期待をしていなかったが空を眺めて驚いた。ところがである。朝起きてみるといつもの曇天。
気温12℃と寒い。本日のコースはD985ルートを南下。30kmも歩道が無い道ゆえ余程の覚悟が必要。因みにフランスに入ってから自転車道を見ない。あっても日本のような普通の歩道。
Vaux-Villaine(ヴォー=ヴィレーヌ)の下り坂
(tue) 28
Jul 7:52 テントを張った場所から5分のところ。
テント場まではOSM(OpenStreetMap)に道が出ていなかった場所であったが、下り坂からのこの部分は地図にあった。現地の観光図から読み解くと、この写真の道も含めて一体が山岳コースになっている。「登山の範疇」はOSM地図(宅地)には不適合なのだろう。
Google Map上はフランス北部は濃い緑色で塗りつぶされている。これは牧場を意味する。村が川筋の谷にひっそりと息を潜めている。それ以外は広大な大牧場地域である。南部にある穀倉地域から、麦わらの束を積んだトラックが北上していく。麦わらビジネスである。循環型の再利用を計っているのだ。
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Rethel(ルテール)へ。国境の森を抜けて麦畑 (tue) 28 Jul 11:48 ロールが沢山転がっている。真夏の風物詩であろうか。 |
Rethel(ルテール)への街道でベンチを見つけた
(tue) 28 Jul 14:04
麦の収穫後の藁の塊を積んだトラックは遅いので渋滞。空っぽのトラックや農耕車が右を南下していく。道いっぱいの幅を取る車群である。フランス北東の最深部は300-500mの丘陵地帯に牧場や麦畑、森が広がる緑地地帯である。あまり人が住まない地域でへたをすると30kmも店も何もない地帯である。しかしピクニックをしているようで景色は抜群。何枚写真を撮ったことだろう。なだらかなup-downを繰り返しSigny-l'Abbaye(シニー=ラベイ)を過ぎた辺りから丘陵が無くなりついにNovion-Porcien(ノヴィオン=ポルシアン)で大平野になった。見なれたポーランドや北部ドイツの風景である。真っ平の大地。
その森が消える瞬間がやってきた。その変化を景色から読み取った。Rethel(ルテール)は牧場が切れ、麦畑一色になる平野部の北限をなす町である。夏休みの束の間の遊園地が出来上がっていた。
ルテール市内のpizzaレストランで肉料理を食する。テイクアウトの店でもあり行列が出来るほどの人気店であった。入り口近くのコンセント付きの席に座ったものだからその人混みに紛れて長時間充電の機会を得た。運河がありボートが多数繋がれテントの人やキャンピングカーの人達もいて絶好のテント場所であった。ただ会員制の場所かも知れず道路を挟んで反対側の空きスペースにひっそりとテントを張る。21:00就寝。
フランス・Rethel(ルテール)の教会
(tue) 28
Jul 17:34
丘の上にそびえる。
明日以降は、大平野のどこからでも眺望できた。
Rethel(ルテール)の遊園地
(tue) 28
Jul 17:53
夏季休暇の時だけ出現する遊園地。
【72. 7/29(水) Rethel(ルテール)からBazancourt(バザンクール)まで】
楽勝の積もりが大変な1日となった。まずは自作地図を読み誤り廃線の枕木を1kmも。工場に引き込まれていくので初めて誤りと分かった。続いて線路わきを十数km行く。
線路脇の道と言えば、聞こえはいいが、実際の線路は地面より下の窪みのような所を通っていた。灌木が土手きわに生い茂っているのでもとより線路は見えない。架線が時々見えている。開けている空間と思ったのは広大で起伏のある麦畑。
Google Mapが近道として示した道は公道ではなく畑の中の農耕車が出入りする私道。いつ途切れてもおかしくは無い。こんな道をよくGoogleは教えるものだ。案の定私道はどんどん狭くなり麦畑を100mほど残して消えてしまった。その先にこんもりとした森が立ちはだかる。藪が出迎えてくれ進行を阻む。透かして見ても道はなく、すぐに断崖となっている。敢え無く敗退。その森を迂回することにした。麦畑の刈った跡を上っていく。国道にはまだ500mほど。遥か先である。道らしい道はトラクターが付けた轍だけ。麦畑のなかにポツリと取り残された感じ。神様と、思わず叫んだ。トウモロコシの切り株はもっとたちが悪い。
50cmから70cmを残して太い茎が地中からびっちり突き出ているのである。それを跨ぎ、あるときは枯れ枝を倒し進んでいく。もう障害物競争である。漸く国道に達した。と最初はそう思った。ガードレールの先にあったのは側道で、国道とは街路樹で隔てられている。舗装はしていない。どこまで続くかわからないがその道を使って進むべき方向へと歩を進めた。
麦畑の道が消えた
(wed) 29 Jul 8:06
左から時計回り。
・農道が途切れて道がなくなった瞬間。ずかずか左端を真っ直ぐ進む。
・森を回り込み起伏を上がっていく。
遠くに幹線E46(3本づつかたまって街路樹が植わる。)が通る。
・側道が南に向かって続く。
Tagnon(タニヨン 発音は大阪の谷四と似ていて面白い。)からLe Châtelet-sur-Retourne(ル・シャトレ= シュル= ルトゥルヌ)と2つの村を、同じような感じで”麦畑と線路脇と側道と言った3点セット”の道を進んでいく。
Rethel(ルテール)からBazancourt(バザンクール)間の麦畑
(wed) 29
Jul 11:57
北向き。右上がLe Châtelet-sur-Retourne(ル・シャトレ= シュル= ルトゥルヌ)の村。
遠くにRethel(ルテール)の教会(見えないかな?)
Bazancourt(バザンクール)手前10kの踏切
(wed) 29 Jul 12:12
次なるはその国道を渡れという。2車線の国道で中央分離帯があるのを渡れとは当然不可能である。距離計測は正しいがGoogle Mapが間違っていたようである。計測を倍にしてみたらやっと橋があった。また麦畑の農道が始まった。なんとしたことか。ここも道が違う方向に曲がってしまう。
線路脇の30cmほどの隙間をとぼとぼと。漸く期待した農道に辿り着く。バザンクールの村に入って驚いた。実に綺麗な花の村。清流があり魚影も確認出来る。caminoマークがあり上記 Rocroi (ロクロワ)-Vezelay(ヴェズレー)の道が通っているのである。ならば話は簡単である。巡礼者を迎える気持ちがある村であると思ってもよい。テント場所は村はずれの公園の隅と決めて早々と設営。そのままウォッカを飲んで就寝。夜半気温8℃に震え上がる。やはりここは北東フランス。寒い地域なのであろう。ホッカイロのような物が必要である。
しかし、一歩一歩、大都市に近づくと言う高揚感はある。漸く
Bazancourt(バザンクール)に到着。ここは疎水が流れ実に美しい花の村である。
ちょうどGR654(Saint Jacques de
Compostelle)の道とも交差する村で、ホタテのマークが出現した。ちゃんとベンチまである。
Bazancourt(バザンクール)の馬と少年たち
(wed) 29 Jul 16:37
最初はびくびくしていたが、写真を撮るというと勇気を出して馬に寄り添ってくれた。
【73. 7/30(木) Bazancourt(バザンクール)からReims(ランス)まで、7/31(金)】
テントを張った公園は牧場に接しており朝靄の中の朝日は天上のもの。素晴らしさに涙さえでる始末だ。
Bazancourt(バザンクール)の朝
公園は麦畑に隣接している。朝日が昇った。
鼻水かも知れ無いが。幾ら寒くても風邪を引かない体質がこの長期歩行でできあがっているようであるが油断は禁物。今日の行程は、農道が15kmも含まれている。30km四方の農地は縦横にトラック道がある。その一角を横切るような感じで延々麦畑を行く。広大な畑には農耕作業車を通すための道が縦横に付けられており、その格子状の道を阿弥陀くじのようにジグザグに南方に進んでいく。大平原の上を流れる雲が間断なく迫ってくる。日陰になると急に寒くなる。
麦畑の上を流れる雲
日陰になれば寒い。日当たりになれば快適
1分毎に入れ替わるめまぐるしさ。
今回は失敗は無くすーと大都市に突入。ついにランスに到着した。見上げるほど大きいノートルダムはパリのと比べると2倍ほどでかい。巨大なノートルダムと言ったほうが当たっている。
このランス。小さくしたパリである。ビルは3〜4階に統一されている。。ただ大聖堂は大きい。ノートルダム寺院という名前であるが天井の高さはパリを凌ぐのではないか。見上げると目が眩みそうになる。シャンパンで栄えた町はワインで栄えた町ボルドーと似ていて全体が裕福にも見える。
シャンパンの古里でもあり市内にはChampagne
cellarsだけでも10社を越えるG.H.Mumm,Ruinart,Vranken-Pommery,Villa
Demoiselle,Taittinger,Veuve,Clicquot,G.H.Martel,Lanson,Charies de Cazannouveなど。重たくなるので買わないが空港で一本ぐらいはgetしよう。
ここで2日過ごしいよいよ最後の156kmを歩く。Champagne(シャンパーニュ)地域のブドウ畑を通る。楽しみである。
Reims大聖堂
Reims・・小パリ!
もうパリそのものである。
7/31(金) Reims(ランス) の夜
多数のレストランやBarが通りにひしめく中Cuisine chnoise et Vietnamienne (61 rue Cbanzy 51100 Reims)を選んだ。とにかくpowerが必要なので青椒肉絲などアジアンテイストが身体にマッチして良いのだ。
Nouvle Palanquin(croquantes et auex fruits de
mer)12ユーロ を選ぶ。店の名前が付いた特別メニューという。大皿が出てきた。
パリパリの乾いた麺の上に野菜とシーフードを煮たものが載っている。巨大なお皿の上に山盛りの料理が運ばれてきた。甘辛いソースが絶妙に絡み美味の上に更に美味。初めての料理である。細い固焼きそばという感じの麺はパリパリとそのままでも食べられるが上に載った野菜やシーフードを混ぜて食べるように箸でcutしながら食す。ビールは「Saigon」2杯。ローゼワインやナッ
ツのサービスがあり59歳のオーナーがこの巡礼を祝福してくれる。ベトナム戦争のとき係累がいるランスにやってきて店を持つようになったとのこと。
7月最終日は 1日ランスを楽しむ。というよりこれからパリまでの168kmの徒歩のための休養日である。まだテント泊が3回残っている。今朝のランスの気温は3℃。信じられようか。テントだと死んでいたのではと思う寒さだ。これは懐炉を買わねばと薬局を訪ね歩いた。
「ホッカイロありますか(vous avez- poche
chauffe comme en tant que Hokkairo)」と薬局を尋ね歩いたが見つからず。電子レンジにて保温にも冷却にもなるパッドなどを見せられたが買うわけにはいかない。
なくなったリュックにはランニングシューズが入っていたのであるがアーヘンからはトレッキングシューズ一本で通してきて不便であった。そこでマラソンシューズも手に入れようと思った。パリではヴェルサイユまでの25kmなどをrunningできればと思っている。また靴の履き替えにも有用である。これはスポーツshopで難なく購入。だいたい町を観光するよりも買い物で町を知るというスタンスの今回の旅。
ランスの中心部はパリのような佇まいである。ビルの高さが揃っていてパリを思わせる。ヴェル通りの目抜き通りに面するGaleries Lafayette Reimsで下着類を買ったりと。
まぁここでも失敗が。 Rue Buirette(ビューレット通り)の宿泊地,Hôtel Cecylの隣にある地下スーパでの買い物。ここでやっとリュックにかける盗難防止のチェーン(鍵)を買った。
これは良し。悪かったのはウォッカである。ドイツから以西100mlの小瓶のウォッカは置いていない。720mlと大きな瓶ばかりである。重たいがこれがないとテントでは寝れないので必需品である。
13.75€という金額を入れて40€ととんでもない金額をレジで弾き出した。あまりに高いのでレジの女性に確認してもらったほどだ。たぶんチェーンなど買い慣れないものを買ったために金額が多くなったのだろう。
トート袋にそれら乱雑に入れてレジを通り抜けた。内容物の態勢を整えようと床に袋を置いた時だ。置き方が悪かったのかガチャンという気になる音がした。恐らく手がすべって5cmばかり袋を落下させてしまったようだ。あろうことか、買ったばかりの大切なウォッカの瓶が割れて、720ccが流れ落ちようとしているではないか。
すわたいへん。ビニールのうすっぺらい袋を探しだしそれを受け皿としたがまだポタポタとウォッカがこぼれ落ちる。安っぽい袋に穴が空いていたのだ。それを2重にして漸く瓶のウォッカは救えた。それにしてもすでに150ccくらいしか残っていない。
床が汚れたのでモップを求めたが無いという。こちらも買い物袋がビショビショであるので逃げるようにして店を後にした。店の出口は入口と違っており地上へ出たらPlace Drouet d'Erlon(ドルエ・デルロン広場)の通りである。
ポタポタと買い物袋から液体がこぼれる。一刻も早くホテルに戻り、最後の一滴を飲まなければならない。
というこんな塩梅でホテルに到着した。ビニール袋に溜まったウォッカを飲み干す。わずか100cc! あぁなんということか。瓶が余りにも薄いというのが原因であるが当方も「細心の注意」ということを怠った。涙である。
Reims(ランス)ノートルダム大聖堂
(thu) 30 Jul 12:29
北側より全景
Reims(ランス)ノートルダム大聖堂
Left:(fri) 31 Jul 12:08 、Right:(thu) 30 Jul
13:30
正面尖塔の左右像。工事中のため2つに分割、右側は右側面から。
左側はほぼ正面に位置するLes Delices Champenoisesの店から。
Reims(ランス)大聖堂のステンドガラス
(thu) 30 Jul 12:53
Reims(ランス)の街並み
(thu) 30 Jul 14:44
Reims(ランス)のトラム
(fri) 31 Jul 9:02 、9:22
芝生の床が新鮮。パリでも見かけた。
はやっているのかしら。
シャンパンの店 Les Delices Champenoises
(fri) 31 Jul 13:29
シャパンニュー地域のほとんどのシャンパンを売っている。20-200€
ボール型噴水
(fri) 31 Jul 14:18
Place Drouet d'Erlon(ドルエ・デルロン広場)
(fri) 31 Jul 18:23
ヴェトナム料理
(fri) 31
Jul 19:05
Noudle
Palanquin・・絶妙な甘辛いソースが料理にかかっており極上
下の麺も食べるほどに柔らかくなって美味しかった。
オーナーはヴェトナム戦争時代にフランスに一家で逃れてきたという。
爾来40年。
【74. 8/1(土) Reims(ランス)からPassy Grigny(パッシー=グリニー)まで】
地図Reims(ランス)からParisまで
Reims(ランス)からParisまで168kmを4泊5日で歩く。内3泊がテント泊。
最後のステージ第19ステージ。残すところは168km。いままで数々の失敗を頭に描くと笑えてくるのだ。このblogは大半は失敗談である。今回の旅何故かいつも「1日」から暑くなる。ポーランドの6/1、ドイツの7/1、そしてフランスの8/1。突然夏になったような猛暑で身体がまいる。
Reims(ランス)D940の花街道
(sat) 1
Aug 8:16
これほど美しい花街道は見たことがない。
花屋がこの前にあるため特に力が入っている。
Reims(ランス)の町を抜けるころから前方に葡萄畑の斜面と平地部に鉄道と高速のE50が見渡せる大展望となる。道はなだらかに下って行き、山麓に達したあたりから今度はどこまでも上がって行く。
シャト・シャンパーニューの村を中心としてDormans(ドルマン)を含む半径100kmほどがシャンパンの領域である。街道もツーリスト・シャンパン街道。村々には認定のマークとワインセラーの看板が大きく掲げられ直販もしているようである。Passy Grigny(パッシー=グリニー)まではほぼD980を西に取る。 Tinqueux(タンクー)市のAvenue Gabriel PériがようするにD980の幹線ルート名である。
Jouy-lès-Reims(ジュイ= レ=ランス )の町では街道に沿って葡萄畑の中を通っていく農道があるので、それに沿って丘を登ることにした。農道はどんどんD980とは離れていくので少し不安になる。Google Earthでトレースした道はまさに葡萄畑の道であったが、途中から90度曲りを2回繰り返し、丘に上り詰めた後はD980に合流するように計画していたにも拘わらず、Google Map上に自作地図を作成する段階でそれを見落としていたことに日本に帰ってから気づいた。結局どうしたかというと例のごとく、麦畑の傾斜地をラッセルで上り詰め細い道に出た後は、幹線道路に戻っている。少なからず冒険であった。
Le Noron川を過ぎたあたりで、遠目にSaint-Euphraise-et-Clairizetサン= タフエーズ= エ=クレリゼ の村を眺望する絶景に出くわした。麦畑と葡萄畑が共存する風景である。
Saint-Euphraise-et-Clairizet(サン= タフエーズ= エ=クレリゼ )遠望
(sat) 1 Aug 11:37
シャンパーニュ地方をずっと見てくるとこの2つの農地(麦畑と葡萄畑)には一定のルールがあることが判明した。すなわち平野部は麦畑、10度くらいのきつい傾斜地で南西、南、南東の向きがブドウ園と。
雨水がたまらず流れ落ち、いつも枯れている状態がブドウ園にはよいのであろう。
而してブドウ農家は、その縁にポツンと存在するという構造である。ドイツと違ってフランスはStreet Viewが充実しているので、絵を描いた場所が特定できる。
Bligny(ブリニー )、Chambrecy(シャンブレシー
)、Ville-en-Tardenois(ヴィル=アン= タルドゥノワ) 、Romigny(ロミニー)と進み、ついにPassy Grigny(パッシー=グリニー)に達する。すべてシャンパンの産地である。
Chambrecy(シャンブレシー )近郊の風景
(sat) 1
Aug 12:45
麦畑と葡萄畑・・・原則として傾斜地が葡萄畑となっている
今晩の宿泊地 パッシー=グリニーもCaillot:Cyril,Mauruce
、Houlle:Marc、Legendre:Jean-Christophe、Legendre:Jean-Christophe、Pilletier:Pere&FilsJean-Michel、Thevenet-Delouvin、Gite la Loge du Coteau などのセラーと銘柄が大きく看板に出ており行き先の矢印が表示されている。
本日のテント予定の村は案の定店は一軒もなく、水がない。
「水も、何もないのだ!」ぼやくように歩いていたら、村の通りを歩く人影。藁をもすがる積りで聞いてみた。やはりバーもレストランも何もないという。照りつける太陽だけが笑っている。
しかしながら観光客を案内しているらしく、目の前の館に吸い込まれるように入っていった。見るとシャンパン博物館である。案内嬢に頼めば生産現場まで見学に連れて行ってもらえる。博物館でも製造方法や試飲コーナーがあり好きな銘柄を選ぶことが出来る。オランダからのバイク青年2人がシャンパンを一本ずつ買い求めていた市販よりも安いが40-60ユーロと値が張るものを。シャンパンの試飲が出来るとあって、立て続けに2杯もお代わり。水を所望したら水道水を汲んできてくれた。その旅行者2人はオランダからのバイクである。彼らも5km先のDormans(ドルマン)で水は手に入るのでと、持っていたオランダ製のミネラルウォータを惜しげもなくくれる。
Photo6:Passy Grigny(パッシー=グリニー)のシャンパン製造機械の展示
(sat) 1 Aug 17:35
シャンパンの蔵元が昔の機械を展示
予定通りこの村でテントを張ることにした。村は結婚式なのか公民館に大勢が集まり祝賀パーティー中。国道の上に休耕田と刈り取られた畑が広がる。小山のように少し盛り上がった場所を格好の隠れ場所としてテント場と決めた。遥か下でパーティーの音。今がchance。誰も見ていない。だが張り終えて問題があることにで気付く。西日が当たって物凄く暑いのである。夜の寒さを想うとき十分に暖めておこうという気持ちで窓を開けるようにテントに風を送り込んで日没を待つ。
満月を少しすぎた月が草原の上に出た。紺碧の空。星が美しい。
【75. 8/2(日) Passy Grigny(パッシー=グリニー)からChâteau-Thierry(シャトー=ティエリー)まで】
パッシー=グリニーは丘の下にひっそりと寝静まっている。太陽はやっとam6:55に顔を出した。他はとっくに明るいのに。ここであることに気づいた。ブドウ畑の条件はこの朝日を十分受けることが出来る東南面や南向きの傾斜面に限られる事を。平坦な場所は麦畑に供される。シャンパンに聞けばわかる。彼らは荒くれた大地の斜面でじっと雨を待つ。傾斜地で土地が痩せているのですこしの新鮮な水しか飲めないのである。後はじりじり照りつける大陽の元でひたすら葡萄を成長させる。この忍耐の要る作業で芳醇なシャンパンが産まれるのだ。何故ガスを詰めてシャンパンとするのであろうか。極めて苦しい葡萄の成長の過程で欠けているflavorをガスと一緒に封じ込め樽での熟成をさせることと5万とある産地の差別化の為である。シャンパンの他に1種類だけ似た製造方法の葡萄酒があるということである。葡萄酒のテイストには必ず現地へ行けという鉄則。机上の学問では得られない。この地を歩くことでつかみ得た真実かも知れない。畑には番号が振られ赤白の葡萄が適度に混ぜられシャンパン原酒が産まれる。どの葡萄を混ぜるかで味が違ってくるのだろう。
オランダ青年達が泊まった筈のDormans(ドルマン)にやってきた。日曜日であるが雑貨屋がopen。superが開いているだろうかと聞いて見た。道順まで教えてくれる。途中で話を遮り「それってCarrefour Marketの事ではないですか?」と。なんだ。あんた知っているの?と大笑い。自作地図には既にスーパーの位置まで記載しているのである。知りたかったのは日曜日でもopenしているか であるがcarrefourに限っては日曜日openを謳い文句にして拡張しているのであろう。今や大きな町ではどこでもある。
ここに戦没者慰霊のシャトーがあるので登ってみた。D980街道は、ドイツとの戦いの最前線であったようで墓地が沢山ある。ここのシャトーも丘の上に慰霊塔を備えてそれは第一次世界大戦の戦没者記念碑となっていた。1914-18の前線がこのシャンパーニュ地方であったからである。川の名前を取って「La
Marne(ラ マルヌ線 1914-18)」と呼ばれた。
実際の解放は1945.5.7 am2:07のアイゼンハワーによるヨーロッパ側の第二次世界大戦の終結宣言でシャンパンの復活の歴史的瞬間とされている。
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Route Napoléon(ナポレオンの道)・・峠越えの道 (sun) 2
Aug 上 11:05、 下 11:56 |
Courthiézy(クルティエジー ) からは山に分け入る小路がある。これが名にし負う”Route Napoléon(ナポレオンの道)”である。モスクワに攻め入るための最短コースとなった道。マルヌ川が蛇行している場所である。その真っ直ぐな道が林道として残っている。楽しみの一つである。
モーゼのような杖を持った男性がこちらに向かってきた。聞くとこの道を2回の往復であるという。南フランスのMontpelier(モンペリエ)で冷凍機器のエンジニアをしているのだと。家族がいるこの地にヴァカンスで戻り体力維持のためのトレーニングだと。一緒に彼の村まで山を越える。斜面は美しい葡萄畑
Crézancy(クレザンシー)の町に降りていき再びD980と合流する。このナポレオンの道を1日3回も往復(合計で30kmほど)している男性に会った。ベンハーのように長い杖を持った大男であるがしなやかに山を登っていく。途中から一緒になってお話。
この近所に家族と共にすむが、通常は南フランスで勤務しており、夏のバカンスで帰省しているのだという。親切にも今日の目的地Château-Thierry(シャトー=ティエリー)までの遊歩道を教えてくれる。
Crézancy(クレザンシー )からナポレオンの道を振り返る
(sun) 2 Aug 13:57
Château-Thierry(シャトー=ティエリー)
(sun) 2
Aug 16:47
Château-Thierry(シャトー=ティエリー)日曜市
(sun) 2 Aug 16:58
シャトー=ティエリー日曜市 小物売り
(sun) 2
Aug 17:02
【76. 8/3(月)
Château-Thierry(シャトー=ティエリー)からMary-sur-Marne(メリーシュル=マルヌ)まで】
雲一つ無いカンカン照りの1日であった。ドゴール空港を40kmに控えて頭上に機影が2分置きに通る。シャトーティエリのホテルからはブドウ畑の頂上まで登りに上る。マルヌ川沿いの風景は背景が葡萄畑の急峻な丘となっており実に風光明媚。
Château-Thierry(シャトー=ティエリー)
(mon) 3 Aug 8:03
葡萄畑から町を遠望
Château-Thierry(シャトー=ティエリー)の傾斜地
(mon) 3
Aug 8:16
葡萄畑巡礼路はその丘にまっすぐ続く。葡萄畑の道は阿弥陀くじのような農道でジグザグに急斜面を上がっていく。葡萄の房がいくつも手に取れるほど密集している。標高差は200mほど。戦争記念碑がアメリカからに寄贈で頂上にそそり立つ。1930年建立。古い割にはまっさらな記念堂。モニュメントは巨大な円弧を描いて、町を見下ろしていた。背後は鬱蒼とした森。ここからD1003の道までトレイルコースが3km延びている。Chemin de la Chapelle(シャペル通り)と立派に名前が付いているが巨大トラクターでも通った跡であろうか深さ50cm-1mの深い轍が。まともに歩けないほどの悪路である。普通の車では即エンストである。道はくねくねと薄暗い森を進んでいく。
Google Mapの現在地確認のみが頼りである。今はもう磁石は使っていない。ぐるぐる回る磁石は捨てた。タブレットの磁石は横置きと縦置きで方角が違う。もうまったく使えないのだ。すべて太陽と勘で方角を定める。Route de Paris(パリ通り)という名前が付いた幹線ルートD1003に辿りついた。
D1003からD401に折れるがひたすら国道を行く。時々にしか車が通らないが皆90kmは越えている。その度に草むらの奥に身を置く。車がいないときは静寂。この時間を利用して小走りで距離を稼ぐ。最近は2時間で12kmというspeedになっている。荷物が軽いせいである。県道D1003はピカルディ地域圏のエーヌ県内の道路で、イル・ド・フランス地域圏のセーヌ=エ=マルヌ県(Département de Serine et Marne)に入った途端、D603に名前が替わった。現金なものである。
いよいよここからイル・ド・フランス地域圏となるのだ。1961年にパリ地域圏が作られ、1972年にRégion ile de France(イル・ド・フランス地域圏)に改称された。パリを含めて1200万人もが住む一大地域圏に突入した。
パリを取り巻く7つの県のうち外側の4県がgrande couronne(大きな王冠)を形成する。その一つがセーヌ=エ=マルヌ県(Département de Serine et Marne)である。
D603をD401へ折れるとコシュレル Cocherel村。
Montreuil-aux-Lions(モントルイユ= オー=リオン)の佇まい
(mon) 3 Aug 12:02
Montreuil-aux-Lions(モントルイユ= オー=リオン)とD401
(mon) 3 Aug 12:26
上がエーヌ県の町。下がD401。コシュレル Cocherel村近辺。
歩道が全くなく、草道も10cm。
さらに麦畑を行きD17へ折れるとMary-sur-Marne(メリ=シュル= マルヌ )という本日のテント予定地に到達する。その間30km、店は何もない。夕食でチャージする事が出来れば最高であるが早く寝て電池の消耗を最小にしたい。予定した池は立ち入り禁止。鉄道の引き込み線がありそばの車道の轍を推し量ってみた。最近通った形跡はない。しばらくマットに横たわり様子を窺ったがokの模様。夜半に雨。気温3℃。凍えるような寒さ。鳥が汚く鳴く。ドイツの美しい鳴き声の鳥はどこへ行ってしまったか。ドゴール空港に向けて3分に一機飛行機が通過する。
【77. 8/4(火) Mary-sur-Marne(メリーシュル=マルヌ)からClaye-Souilly(クレイ=スイイ)まで】
Mary-sur-Marne(メリーシュル=マルヌ)の壁絵
(tue) 4
Aug 9:11
テントの近くに鉄道の本線があり列車が通過していく。考えてみればここは鉄道用地の中なのであろう。朝早くそこを立つ。Trilport(トリユポール)までの10kmは今までにない恐ろしいD17、D603などの国道。であった。人通りがまったくなく、深い森である。川沿いで縦横に道があると思ったのはすべて林道で、それが時たま幹線D17と交差するのだ。マラソン人と出会ったりと。この林道自身は素晴らしい景観の散策道でもあろうが幹線は違う。人など通ってはいけないのか人が通ることを想定していないのか、車がspeedを落とさず通過していく。
幅広い草道があるので救われるのであるがいたって歩きづらい。凸凹、棘草、道の縁の突起などと、とても人の歩く道ではない。今回の旅でこれが最後の「険しい道」となった。
1,2,3と65歩づつ100mで計測していくのは今まで通り。声を出して数えていたら、なんと歯が一本抜けてしまった。詰めていた歯であるのでしょうがないのであるが、痩せてきたため歯までもガタがきたのであろうか。辛抱しなければ。あとはもうすぐだ。
Trilport(トリユポール)では小さなバーがあったので朝のコーヒーを飲む。川べりで休憩。スケッチ。川を伝って歩く団体と遭遇した。大きく蛇行するするため今回はコースとしなかったが、川沿いに遊歩道が設けられどこまでも行けるのであろう。
Trilport(トリユポール)のマルヌ川の風景
(tue) 4
Aug 10:04
Trilport(トリユポール)のマルヌ川
(tue) 4
Aug 10:29 電車橋である。
Meaux(モー)市街
(tue) 4 Aug 12:19
遊歩道が町を貫通する。薬局で爪切りと耳かきを購入
Meaux(モー)郊外
(tue) 4
Aug 13:45
Meaux(モー)市の旧市街地を進む。人優先の遊歩道となっていて快適である。パン屋で買ったエクレア。ハトロン紙に包んでもらったがリュックのなかで忽然と姿を消した。モーから Charmentray(シャルマントレ)の10kmは、想像を絶するcamino道。最後の試練の場となった。
道は映画の撮影で使われる場所でもあった。のんびりとした麦畑の土道に忽然と車と人だかり。俳優たちがセリフを暗記しながら監督のGoサインを待っている。くだんの監督は土手に座り込みじっと虚空を眺めながら動かない。助監督がカメラアングルを相談に行く。一台の車がパリを目指して走っていった。撮影で使う小道具を取りに行くのであろうか。3人の俳優が土手に座った。カメラは麦畑の土手の中腹に設定し下からのアングルで狙いを付ける。銀幕を張った傘や、反射板を掲げるスタッフ。撮影の試し撮りが始まる。そこを通行人として通りすぎるturbo717。NG! 通行人は画像に入ってはいけなかったようである。だって当方も先を急ぐ身である。まだ10kmも残っているのに田舎の一本道で撮影が始まったからと言って終りまで待てないのである。
後は難度の高いそま道。作成した地図では細い線の道が続く。誰も通らないが道としては存在している。それが土道だとすぐ雑草と灌木が生い茂るジャングルになってしまうのだ。難度が高い道を行き続ける場合は相当の覚悟が必要である。電柱の配列、農耕車の轍、土地の起伏、家の存在、自動車の音など五感を100%使っての道の探索。川や運河が有ればお手上げ。元に戻る覚悟。そま道から上を眺めてみると電柱がづっと続く平坦な平地が見えた。上がってみると広大な麦畑。その端っこに僅かな轍(わだち)のあとが。この道も途中途切れてしまい敢え無く敗退。Google Mapを恨むでもないが、おとなしくD54Aを行っておけば苦労はなかったのである。遠巻きに麦畑を延々歩き、最終的には牧草地のような斜面をスライドしながら下に降りていく。小川には予定通りに鉄板ではあるが橋がかかっていて命拾い。
運河沿いの快適な道に到達できたと喜んだ時にパリからの自転車人に会ったのである。運命的な出会いとなった。パリに着いてから大変お世話になることになる男性がその人であった。
Claye-Souilly(クレイ=スイイ)という運河沿いの可愛い町に到着した。パリからのカップルが盛んに”キュートな町”と褒めたたえていた町である。パリまで続くマルヌ運河がすでに始まっている。クレイ=スイイのpizzaハウスで充電。まさに荒野の一軒家。そのためかあらゆる料理に皆が舌鼓。テントは更に3kmばかり進んだ運河沿いの空き地。22:30就寝。。残り30km!! ラスト1日となった。
運河カナル・ド・ルルク
(tue) 4
Aug 16:43
【78. 8/5(水) Claye-Souilly(クレイエ=スイイ)からParisまで→8/8(金)】
パリ10区にあるサンマルタン運河(Canal Saint Martin)の源流が、このClaye-Souilly(クレイエ=スイイ)の町を通過している運河カナル・ド・ルルクである。
運河脇にある広場に昨夜遅く到着してテントを張ったのであるがおやつに楽しみに取っておいたエクレヤが忽然と消えた。食べ物の恨みは恐ろしい。旅から帰って2ヶ月もなるのにまだ残念に思っている。
悪いことに1時間前まで頭に付けていたヘッドランプもどこを探しても見当たらないのである。この2つを残したまま後ろ髪を曳かれるように出発した。頭の上に「?」が点灯したままである。振り返り振り返り別れを惜しむように進む。そのうち朝日が樹木を通して溢れだし、西向きに進む小生の影を演出する。まさに巡礼人のように長い影を踏みながらパリへと進む。
運河の柳
(wed) 5 Aug 7:53
Claye-Souilly(クレイエ=スイイ)を過ぎると、Livry-Gargan(リブリ= ガルガン )、 Sevran(スブラン)の各市の公園エリアを通過する。Sevran(スブラン)などは、Parc forestier de Sevran(フォレスティエ・ナシオナル・ド・セヴラン公園)の広大な緑地帯の一部となっていて気持ちがいい。
運河沿いを行く
この辺りから運河の右岸をRATP-SNCFの通勤電車が行き来する。橋の間隔が1kmと狭くなりだすともう都会の空気を感じる。左右の土手の上を行く人通りも増えてくる。ついにE15やA85といった高速道路の幹線をくぐる段となった。パトカーの音や、大渋滞の車の列を運河から見上げることとなった。下界の喧騒が次第に迫ってくる。
マルヌ運河沿いの道。延々20kmくらい歩いたであろうか。Bondy(ボンディー)市、
Bobigny(ボビニー)市を通過。ついにPantin(パンタン)市で遊歩道が途切れてしまった。運河沿いのあるジャリ工場が行く手を阻む。誰も来なければ柵を越えてまだまだ行こうとしたのかも分からない。阻むものは越えていくという習慣がついてしまったのだ。しかし自転車人があっさりと引き返して行った。見ると自転車を担ぎトントントンと工場わきの階段を登っていく。
階段を上ったところが、Rue Raymond
Queneau (レモン・キュノー通り)で、N3と言う大幹線に合流する。この通りにはRue de Paris(パリ通り)という名前が付いている。
パリ市の隣町Pantin(パンタン)市からすでにメトロが動いておりBobigny-Pantin-Raymond
Queneau(ボビニー・パンタン・レモン・キュノ駅)という長い名前のメトロ駅があった。
ここから運河を潜って、Bobigny-Pablo
Picasso(ボビニー・パブロ ピカソ駅)の終点駅に向かうのが5番線である。Église de Pantin、Hocheの駅を通過すればついにParis市である。
東駅と北駅の間を真っ直ぐオペラ座に向かう。オペラ座で120度曲り、オペラ通りからルーブル美術館へと進む。そしてノートルダム大聖堂へと向かった。余りの観光客の多さに前に進めず。大聖堂に入るにも30分待ちの大行列。これら全て諦めダルタニアンYH(ダルタニアン・ユースホステル(YH Paris - Le d'Artagnan) 80 Rue Vitruve 20区)へ。ここでトレッキングシューズを脱いだ時が、今回の旅の終わりであると自覚した。なぜなら、もうこの靴の出番はないのであるから。
このユース、今までと違って、ランドリーが完備。洗濯2€、乾燥1€であり、若者はぎゅうぎゅう詰めで洗濯をしていた。夕食が6€と格安。
実は、4区にある、Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)(高さ54m。夏期には事前に申し込んでおくと登れるということである。場所:39 Rue de Rivoli 75004 Paris)こそ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の起点であるので、次回はここからスタートとしたい。
12500kmではなく、たったの2500km。自慢すべきことは何もない。自作地図は98%くらい忠実に守った形。その意味で準備段階で旅はほとんど終わっていたのかも知れない。
ユースでの氷が入った水を何杯お代わりしただろうか。全ての細胞が水を求めていたのかも分からない。