ヨーロッパ横断紀行
ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜 太田 宏
10・・その1−フランス2(パリ滞在、郊外などのoption 8/6-8/9)
【79 8/6(木) Paris滞在〜帰国まで 8/9(日)】
【オプション 8/7(金) Auvers sur Oise(オーヴェル シュル オワーズ)にて
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朝食時に隣のご婦人、パンやチーズをどっさりとカバンにいれて帰って行った。一家のために泊まったのであろうか。まぁ、小生も間食用にと同じようなことをしているわけであるが。
パリ到着のお礼・・先ずは素敵な風景を楽しませて頂いたポーランド、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスに感謝。Lineで繋がっていた家族、FacebookやBlog ファンの皆様。本日まで応援ありがとう。数々のハプニングがありましたが 8/5(水)15:00にパリ・ノートルダム大聖堂に到着しました。
ホテル・ホステルなどの宿泊・・31箇所39日(3連泊・・クラクフ、パリ 、2連泊
チェンストホーヴァー、ワルシャワ、ハンブルグ、ケルン )、テント泊・・49日、合計88日のヨーロッパ滞在であった。気温は平均して寒く、汗をかく機会が少なかったことが幸いして比較的爽快な日々。恐らく10kgは痩せたのではないかと。骸骨が必要最小限の筋肉と皮を被っているという図式で、変わり果てた小生。復活するには3ケ月かかるかもしれない。これを糧に71歳となった小生から何かコメント出来るのでしょうか。今回の旅「
決して真似をしてはいけない。余りにも危険なコース取りであった。(下記に触れている。)」ということだ。あまりにもハプニングが多かったので本人自身TVのドッキリカメラに操られているのではないかと思ったほどだ。いやきっとそうに違いない。パン屋で買ったエクレヤが忽然と姿を消したのも。
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上:19区Avenue Jean Jaurès(ジャン・ジョレス通り)、 下:4区 Boulevard Henri IV(アンリ4世通り) 通りの先にあるのがBastille(バスティーユ)広場にある7月革命の記念柱 (wed) 5 Aug 13:05、15:44 |
パリ・ノートルダム寺院
40年前にパリ20区のGambetta(ガンベッタ)にすこしの間住んでいた。当時は17:00になれば会社から追い出されafter5を100%楽しんだものだ。パリ市内には当時9900の通りの名前があった。taxi運転手はその全てを覚えていないと資格が与えられなかった。ならばこちらもその全てを歩き通すということを目論んだものだ。これは途中で挫折したが当方もかなりの道を足を棒にして歩いたものだ。その当時のパリと現在のパリ(4日しかいないが)を比較してみよう。
交通・・Metroは第14番の路線が増設。その殆どの路線が郊外に伸びている。駅や通路は小綺麗に全面改装された。場合により路線自体も全面改造されたのかもわからない。11番線の終点は地下が深くなったのでは。乗換えも非常に分かり易くなった。以前は地下通路が巣窟のようで一旦地下に潜れば二度と出て来れないかも知れないという恐怖を味わったものだ。特に大きな乗換え駅、例えばRépublique (リピュビリック)駅。各所に付いてあった一方通行のゲートが取り除かれ自由に行き来が出来る。自動改札となったためである。路線毎にfrom,toと路線番号と行き先方向の終点駅の4つの情報が要るがこれだけあればどこでも行けるのだ。格段の進歩。
RERは2路線増えて3路線に。その一つがOrly(南)とCDG(北)を結ぶエアポート路線でmetroともNord駅を初めとしていくつか繋がっているので簡単に空港に行ける。その他はT路線。昔の環状のブルーバードが路面電車軌道に変更された(一部分のみであるが)。ふかふかの芝生が敷き詰められた床を静かに進んでいく。車はその外郭に設けられた専用道路を使う。いたって静かになったブルバード。
人種・・前より色が濃くなったイメージ。黒人男女がかっこよく街を闊歩する。中国人、韓国人が目立ち日本人は影が薄くなった。(どこの国でも同様。いやもともと日本人は静かで目立たなかったのかも。)
信号無視・・ポーランド、ドイツでは全員きっちり信号を守っていた。(そう感じていた。お利口さんの集団のように。)ところがどうだろうフランスでは車が来なければ渡るというスタンスで誰も信号を守らない。これは変わっていない。車が来ているのにすり抜けるように走るのは若者に限るが。
Gambetta(ガンベッタ)にて
Claye-Souilly(クレイエ=スイイ)で出会った男性と、今回は別の女性が同伴でパリ・ロワイヤルで待ち合わせ。
2日前の8/4にClaye-Souilly(クレイ=スイイ)に向かう運河の端で疲れ果てていたらタンデム(2人乗り)の自転車のアベックが心配して声をかけてくれた。最初から運河沿いの道を進めばよかったものをそま道から麦畑へと大きく迂回したために気分的に疲れていたのだ。少し話す機会を得た。パリからマルヌ運河沿いに39km自転車でこいで来たとスマホの計測ソフトを見ながら言う。これからMeaut(モー)市まで運河沿いに進み電車で帰るのだと。イージーであると笑う。その後何回か写真付きのメールのやり取りがありそして本日18:30にPalais Royalでお酒でも飲もうということになった。
会社は9:00〜9:30が始業時間という。ポーランドより2時間も遅い。
お酒は18:30〜20:00頃。その後が食事timeのようである。夕食にcafe Restaurant に飛び込んでも19:00までは料理の注文はお預けであり。彼らは話をとことん楽しむ。彼らと20:00頃別れて懐かしのガンベッタへ。昔住んだことがある町を見たい。できれば懐かしのレストランで食事をしたい。今回の旅のもう一つの楽しみでもある。
行き先方向のガンベッタは高台にあるので夕陽がきれいではないかという。さらにPére L'Achaise(ペールラシューズ)公園の端に掛かる三角地帯にbistoroが列をなし、おいしいと。
住んでいた場所の最寄り駅はメトロの3aという支線でガンベッタから一つ目のPelleport(ペルポート)。elevatorで上がる。システムは同じであるが、がちゃがちゃとエレベーターの扉を閉めたものが近代的なものに変わっていた。外は40年前と代わらず同じビル群。仕事をしていた会社の場所は豪華マンションとなり、下宿先は5階建のアパートに様変わりしていた。「ボワラ」といって威勢よく料理を運んでくれたおばさんの居たレストランはどこに?
仕事の帰り道にあったBarは今もって健在。パチンコ台はなかったが。要するにパリ中心街を除いて周辺がじわじわと変わっていくのであろう。パリ中心街はその一階部分(grand floor)は総て綺麗に改装されMacなどが入っていたりする。2階以上は変わっていない。
昔働いていた場所・・今はマンション
Surmerin通りの下宿先は近代的なアパートに
ガンベッタまで降りお薦めビストロに行ってみた。驚いたことにどの店も300席くらいあって路上テーブルが人で埋まっている。これほど繁盛している店を見たことがない。Les Foudresというbistroで、肉料理に舌鼓。ギャルソンは目の回る忙しさでオーダー受付と料理の支給と勘定をこなしていく。もう神業である。
Bistro街 公道は1mくらいしか残っていない
Nortre-Dame
(ノートルダム大聖堂)Pont au Doubleオー・ドゥブル橋より
(thu) 6 Aug 10:04
長さ127m、幅32.5m 塔 63m
ランスのノートルダム大聖堂・・長さ138.75m 幅38m 塔82mとパリを凌ぐ。
逆に言うと、ランスを見た後では、パリのは非常に小さく感じてしまった。
Pont St.Michel(サンミシェル橋)からセーヌ左岸
(thu) 6 Aug 10:20
Quai des Grands Augustins(グラン・オーギュスタ通り)の方角(0°)
どのビルも屋根裏が特徴的。整然と並ぶさまは荘厳。
Pont Neuf(ポン ヌフ) 及びシテ島を眺望
(thu) 6 Aug 11:01
アーチが合計7つなのにヌフ(9つ)とはこれ如何
左側の尖塔がTour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)
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Pont Saint-MichelからPalace Saint-Michel (thu) 6 Aug 10:37 |
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Pont des Arts(ポンデザール)よりQuai des Tuileries, (thu) 6 Aug 10:49 |
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Rue de Rivoli(リヴォリ通り)の観覧車 (thu) 6 Aug 11:26 夏期限定であろうか、巨大な観覧車がリヴォリ通り置かれている。 Jardin des Tuileries(チュイルリー 庭園 ) |
8区-Place de la Madeleine(マドレーヌ寺院)
(thu) 6 Aug 12:34
コリント式の柱(高さ30m)が52本並ぶ壮大な寺院。正面は「最後の審判」彫刻
Le Palais Royal(パレ・ロワイヤル)
(thu) 6
Aug 18:38
この辺りは金融街でフランスフランの時代は兜町であったという。
通りの左側の門を入るとパレ・ロアイヤル
静かな一角があった。別世界である。
【オプション 8/7(金) Auvers sur Oise(オーヴェル シュル オワーズ)にて
Auvers sur Oise(オーヴェル=シューズ=オワーズ) はパリの西北30kmにある村である。 Claye-Souilly(クレイエ=スイイ)の運河で偶然出会った男性とパレ・ロワイヤルでベルギー産の白ビール(ヒューガルデン・ホワイト(Hoegaarden white))を飲みながら余暇をどう過ごすかと言う話題で浮上した地名である。ヴェルサイユ宮殿より空いていて落ち着けるという。翌日電車で行ってみた。
アクセス・・・Paris Nord駅から2つのルートがある。北駅からはなかなか難しい。途中乗換が絶対必要になる。2つのコースがある。
往きは・・Gare du NordからPontoise(ポントアーズ)行きの電車に乗り、ひとつ手前のSaint-Ouen-l'Aumône(サン=トゥアン=ロモヌ)駅で乗換て→Auvers-sur-Oiseへ。帰りは・・Auvers-sur-Oise駅からValmondoisで乗り換えてGare du Nordへ。という具合である。netでもなかなか買えないので、直接駅へ。乗換があるので凡そ1時間半。
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パリNord駅からAuvers sur Oise (オーヴェル=シューズ=オワーズ)への map パリ北駅から32km Auvers
sur Oise村 小さく書いた□が絵のパネルがある場所 |
ここはなんとゴッホ終焉の土地であった。ツーリストオフィスを尋ねたときに日本語の説明書を貰って読んでみて初めてそれを知ったという無知ぶり。ガイドの冊子には散策コースと絵のパネルが置かれている場所を図示していた。
お墓は弟のテオと共に墓地の最上部にツタの葉っぱで埋まっており緑一色の墓となっていた。ラジョン、ゴーヌット、ミュレル、ボッジョ等の画家もこの墓地に眠る。最期の65日に100枚以上の油絵を描いた凄まじいまでのゴッホ。それを表現した立像がゴッホ公園にある。背中に2張りのキャパスを背負い、たすき掛けに身体に括り付けている姿は鬼のようである。これがゴッホ37歳の真実の姿なのかもしれない。ゴッホが描いた「オーヴェールの教会」は12世紀建立の古いものであるが今も同じようにように建つ。ゴッホが見たらこんな風に曲がってしまうのかと思うのは素人の浅はかさでこれが「印象派」の「絵」なのである。我々が描くとただ「描きました」というだけの絵で何の感動や響きも呼び起こさない。コロー、セザンヌなども訪れた村は他のどの村とも変わらないがオーヴェル・シュール・オワズの高台を通る古い道からの眺めは抜群である。ポートワーズでセーヌ川と合流するオワズ川も画家たちを引き寄せたのであろう。
この地はセザンヌ(1839-1906)も訪れている。34歳のとき、1873年に医者ガッシュの勧めで居を設けて3年ほど滞在したようである。そときの作品が
「La Maison du Père
Lackroix,À Auvers オーヴェールのラクロアの家(1873年)」
「La Maison du Docteur Gachet,À Auvers オーヴェールの医師ガッシュの家(1873頃)」
「Auvers,vue Panoramique オーヴェールの眺め(1873-75)」など。
一方 Van Gochの方は、1890.5.20〜7.29の69日間のうちパリに4日滞在した日数を引き算して65日間、このAuvers sur Oise(オーヴェル=シューズ=オワーズ)に滞在している。この間描いた絵は100枚以上である。
ここに至るまでの遍歴は下記のように激しい。
ポリナージュ(1879-1882)→ハーグ(1882)→ヌエネン(1885)→アントワープ(1885)以上オランダ→アルル(1888-1889)→サン=レミ(1889-1990)→オーヴェル=シューズ=オワーズ
オーヴェル(or オーヴェール)では、
「L'Église D'Auversオーヴェルの教会(1890.6)」
「Champ de Blé aux Corbeaux 鳥のいる麦畑(1890.7)」
「Le Jardin du Docteur Gache ガッシュ博士の庭(1890.5)」
「Portrait du Doctuer Gachet ガッシュ博士の肖像(1890.6)」
「Portrait de Lui-Même 自画像(1890.5 最後の自画像と言われている・・37歳)」
「L'Escalier D'Auvers オーヴェルの階段(1890.6)」
「Le Jardan de Daubigny ドービーニの庭(1890.7)」
「Champ sous un Ciel Orageux 嵐の空の下の麦畑(1890.7)」
などの名作が次々と生み出されていった。
これらの絵のパネルがある場所がmapに図示されていて、それを尋ね歩く旅。実にユニークで面白い。延々10kmくらいは歩くことを覚悟しなければならない。スタンプ集めのようなウキウキ感がある。
余談であるが、ゴッホは36点もの「自画像」を描いている。生涯のあらゆる時期にわたって執拗に自画像を描き続けた画家はまれである。アムステルダム 国立ヴァン・ゴッホ美術館蔵の「Portrait de Lui-Même au Chevalet カンヴァスの前の自画像(1888-パリ)」は老人のような自己追求の自画像であるがなんと35歳のゴッホである。
駅前
(fri) 7 Aug 10:20
標識
(fri) 7 Aug 10:31
オーヴェルの教会
(fri) 7 Aug 10:28
Église
Notre-Dame-de-l'Assomption
ゴッホが描いた同じ場所から。
オーヴェルの教会とゴッホの絵の対比
(fri) 7 Aug 10:31
オーヴェル=シュル=オワーズ墓地へ向かう道(Avenue
du Cimetiereシムティエール通り)
(fri) 7 Aug 10:54
オーヴェル=シュル=オワーズ墓地へ向かう道と、その前の麦畑
ゴッホが足しげく通った場所である。
最期はここでピストル自殺を図ったのかもしれない(1890年7月27日は日曜日であった。)
ゴッホ兄弟の墓
オーヴェルの墓地から
(fri) 7 Aug 11:15
ゴッホが「La Pluie(雨)」を描いた場所
オーヴェルのパリ通りを見おろす
(fri) 7 Aug 11:36
オーヴェルの教会のテラスから眺望
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オーヴェルの教会を見上げる (fri) 7
Aug 11:55 |
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「Portrait du Doctuer
Gachet ガッシュ博士の肖像(1890.6)」 (fri) 7 Aug 13:24 |
「Portrait de Lui-Même 自画像)」
(fri) 7 Aug 13:26
1890.5 37歳 36枚の自画像のうち最後の自画像と言われている。
セザンヌ レミ通りの四辻
(fri) 7
Aug 13:26
セザンヌもこの村に居を構えた。
オーヴェル=シューズ=オワーズでは、どのくらいこの道を歩いたであろうか。Google Earthでトレースしてみた。10.4kmと算出された。オワーズ河畔は3kmであったがすべて土道であり爽快
Rue Gachetガシェ通りの家屋群
(fri) 7 Aug 13:01
Rue François Coppée フランスワ・コペ通りの家屋群
(fri) 7 Aug 13:38
手前の家の2階からは猫が網戸に寄り添って下を見ている。
昼下がりの空間。
断崖が続くRue Gachetガシェ通り
(fri) 7 Aug 13:56
村はこの断崖を見上げるように迫っている。
L'Oise オワーズ川の眺め(D928 マルセル・ペラン通り)の橋げた下から
(fri) 7 Aug 15:02
遠く丘の上はMérielメリエルの方向 帰りの列車はここを通った。
Auvers sur Oise(オーヴェル=シューズ=オワーズ)駅横の古本屋
(fri) 7 Aug 15:24
1万冊くらいが小屋の中に山積みされている。愛好家が訪れていた。
Valmondois(ヴァルモンドア)駅での乗換え
(fri) 7 Aug 16:17
Auvers-sur-Oise駅からValmondoisで乗り換えてGare du Nordへ
Gare du Nord(ガール・デュ・ノール 北駅)前
(fri) 7 Aug 17:39
国際列車(ユーロ・スター、タリス),フランス国鉄(TGV,Coraol Intercités)、近郊列車(トランジリアン)、RERなど合計44番線まであるフランス最大規模のターミナルである。駅中のコンコースでお土産用にチョコレート(Boite Cuir Rouge)を買ったが、外はかんかん照り。幸い重厚なケースに守られて溶解することはなかったが冷や冷やものであった
オーバック(Aubrac)牛のステーキ
(fri) 7
Aug 20:07
帰りは夕方となったが食事には時間的にまだ早い。目的のレストランまで時間を稼ぐために歩くことにした。北駅からBoulvard de Magenta(マゼンタ通り)を東南方向に。リピュビリックからヘルヴィル通りを登っていく。向かうはエスカルゴが有名であると教えてくれたその名もL'Eskargot。パリの最後の夜をエスカルゴで締めくくろうとしたのである。しかし夏休みなのかつぶれたのか店は貼り出しもなく閉まっていた。
しょうがなく近くのBarに駆け込み夕涼み。暑い日であった。漸く19:00にオーダー解禁となりFoi de veau de bit pueu de
Celeri とやらを注文した。これがオーバック(Aubrac)牛のステーキであったとは。ウエイトレスに聞いたが分からないと言う。コックに聞いたのであろう貴男が正しい。オーブラック牛であるという。厚さ5cmの肉ながらとろけるほどの旨さ。オリゴソース(マッシュポテトとチーズをとろとろにした付け合せ)とともに食べるのは伝統。な、なんということか。ル・ピュイからモアサックへの巡礼路で会った牛達。パリ3星レストラ御用達の高級牛がこの街角で食べれるとは。今まで食べたどのステーキよりも美味かったことは事実である。
さていよいよ帰国である。では。
まとめ
ポーランド・・・天国のような国、ポーランド
ドイツ・・・・・涙の国、(浸水、雹、下痢、盗難)
ベルギー・・・・静かな国、ベルギー
フランス・・・・笑顔の国、フランス
(第一部 完)