サラリーマン文化芸術振興会

会員のページ・・どじょっこ雑記 1/3 中村 英生

2008.11
どじょっこ雑記(1)            中村英生

 私が「どじょうすくい」を始めて10年近くなり、なんでこんなことになってしまったのかはよく分かりませんが現実です。定年前の現役時代に、仕事の関係で東南アジア、とくにシンガポールへ度々行っていたのですが、現地の会社では従業員の定着率を高めるために、年一回、会社挙げての「カンパニーディナー」(慰安会)が行われていました。昔は日本の各企業でも行われていた一般的なものでしたが、その「カンパニーディナー」に偶然?に2〜3回出席したことがあります。当日は、全社一斉に定時で仕事を終え、一度自宅へ帰ってから会場へやってきます。みんな着飾って社内で見る姿とは一変し、特に女性はあっと驚く変身ぶりでホントにお見事!そして家族揃って、なかには親戚や友人も混じっているようでしたが、そんなことはゴチャゴチャ言わないのです。プログラム最初は、あれこれ会社のセレモニーが続きやがてステージの演技が始まり、中国、マレー、インド系などの民族舞踊など、またミスカンパニーコンテストなどの出場者の衣装やそのウオーキングはプロなみです。会場は千人を超える騒然とした大宴会となり翌朝まで繰り広げられます。そんなことで「中村さん、たまには日本のものなにかやってよ」と言われて「ハッ!」と思いました。「私には何もない」「そうか」「これはまずいな」と・・・「どじょうすくい」に出会う2〜3年程前のことでした。

 

2008.12
どじょっこ雑記(2)              中村英生
その後しばらくして、技術開発テーマの相談で墨田区に在る有名なある町工場に出かけました。その小さな会社は、当時12〜3人の会社で年間20数億円の売り上げといわれ、ものづくりの或る分野では、国内はもとより世界の国々から難問を持ちかけられている最高レベルの町工場です。社長自身の固有の技術・技能そしてアイディアと執念が、不可能と思われることを可能にしていることが会社を有名にして、マスコミや雑誌・書籍そして講演など多忙で今も健在です。下町の普通の家屋で、広い玄関には靴やサンダルがあちこち、いくつかのダンボール箱なども積み置かれ、お世辞にも整然とはいえないお茶の間みたいな部屋が応接間で車座になって話をします。その住居のすぐ隣に木造の小さな工場があります。その社長(名刺は代表社員・・・これにも逸話がある)の話は、落語か講談でも聴いているような口調で続く・・・実に面白いが中身は教訓的な話で今でもいくつか思い出します。余談ですが、大手のデパートが客寄せのために借りにくるという「一億円のオパール」を触らせてもらったのですが「持っていっちゃだめだよ」なんて冗談言われたり・・・。
仕事関連以外の話も多かったのですが帰り際にこんな話をしてくれたのです。「実は、ウチの孫が“どじょうすくい”の全国大会の少年の部で優勝したんだ」という。「これからは、外国語と日本の伝統文化を身に付けなくちゃだめだ」とか言って、島根県安来市にある本部道場へ特訓に行かせた結果だそうで、その記念に作ったという「テレフォンカード」をもらって帰りましたが、思わず「うん、これだな!」と心の中で妙に納得しました。その記念のテレフォンカードは今も手もとにありますが、残り度数は当然ゼロ・・・です。

 

2009.1 
どじょっこ雑記(3)              中村英生  
ある時、カルチャーセンターの新聞広告が目につき、その講座の一つに「どじょうすくい」があるのを見つけ「あった!」と・・・。こうして私の「どじょうすくい」への道が始まりました。想い起せば、母親の故郷である福島県の片田舎は山林および畑や棚田もあり、子供の頃は夏休みになると毎年のように行っていました。田んぼで、イナゴやタニシをとり、小さな川で水遊びをしたり沢蟹や小魚を捕まえ、山や畑を走りまわったりの毎日でした。たばこ葉も作っていて、天日で乾燥させるための荒縄に葉をはさむ作業や、そのための縄編みや草履編み、また蚕の餌の桑の葉摘みなどもしたり、手伝い仕事も遊びの一つでした。田んぼの雑草とりでは、「どじょうすくい」踊りの所作にもある「蛭(ひる)」に吸いつかれこともたびたびで、足に吸いつかれるとなかなか取れません。蛭の吸出しの強さを利用して、「むくんだ足に吸いつかせて悪い血を吸わせると治る」なんて聞かされたことも・・・。どじょうは手づかみではなかなか捕まえられませんが、夕方、田んぼの用水路の何箇所かに「どじょうカゴ」を仕掛けておいて、翌朝カゴを見にいきます。実りの秋には田んぼの水が落とされ稲が刈り取られ、どじょうもそろそろ冬眠に入る時季になります。天日乾燥された稲は木製の足踏式脱穀機で脱穀します。そして部落共用の水車小屋の石臼でコットン、コットンと打ち続けて、やっと七分づきか八分づきのお米となります。ある日、米俵に腰掛けていると「どこに座ってんだ」と母親に竹箒で叩かれひどく怒られました。「どんだけ苦労して作ったのかわかんないのかッ」と顔を赤鬼みたいにして・・・。そんな思い出もあった母親は、10年程前に脳梗塞で倒れて以来の特別養護老人ホームでの生活でしたが、平成20年10月に他界しました。

 

2009.2 
どじょっこ雑記(4)     中村英生
「どじょうすくい踊り」は1年くらいでなんとか覚えられる程度のものかと気軽に考えていました。それが間違っていたというか、他人の前で踊るにはもう少し上手にならないと、と思っているうちに今日に至ってしまいました。「どじょうすくい」は、島根県の民謡安来節の男踊りのことですが、女踊りもあります。ここで安来節保存会会報誌を参考にして、民謡“安来節”の概史を少し説明しておきます。
江戸・元禄時代には、全国の港を廻る回船が盛んで、それらの舟によって全国の交易品と共に、全国の追分、おけさ等の民謡や田植え唄、舟歌などの仕事唄など様々な唄が流布されました。それらに、その風土や地域の特色が唄いこまれ、独特のものが生まれ育ちました。安来の港もそれに漏れず、唄う人や、土地の名をつけて安来節、出雲節、和田見節、三港節などと呼ばれ混交混在していました。安来節もはっきりした形が最初から在ったわけではなく、改良されて今の形に定着するまでは曲折がありました。
明治初年、港発展のために作られた花柳界は、賑わいに沸きたち、安来の港町(現在の安来市)は繁盛しました。そんな世相の中で素朴な安来節も遊興唄として卑俗な唄になっていきました。安来節の品位堕落に憂慮した地元愛好家たちが安来節保存会を企画する運動が起き始めました。そのころ幸運にも唄の上手な一人の女性が現れ、明治38年文部省役人の前で披露された安来節の素晴らしさに驚き、その役人は「郷土芸能として保存せよ」と激励したといいます。明治42年横山大観もまた、安来に一泊した際に聴いた安来節を「名謡でその保存と振興に力を注ぐべきだ」といい、そのことが識者間で話題になったそうです。その後多くの有力者の尽力があって、明治44年「正調安来節保存会」(その後安来節保存会に改称)が設立され、今年は創立98年目となります。

 

2009.3
どじょっこ雑記(5)        中村英生
どじょうすくい踊りの起源の概要についても若干の説明をしたいと思います。
安来近郊の若者が昔、鰌を掬ってきてそれを肴によく酒盛りをしていたその席で、いつも鰌を掬うときの動作を真似た踊りを座興としていたといいます。この踊りが安来節のリズムに合って、安来節のあるところ鰌すくいの踊りがあり、安来節の発展とともに大衆の中に浸透していきました。浜佐陀地区に住む竹内由助という百姓は器用な人で、日毎の生業の鰌掬いの動作を手振り、身振り面白く踊り、酒席等で喝采を得たと伝えられています。
明治〜大正にかけて安来節の飛躍的発展と共に、鰌掬い踊りもさらに改良・工夫され、客席でも愉しまれる踊りに進化してきました。踊りも男踊りと女踊りに分けられ、女踊りは大正5〜6年頃、西川流小川静子の振り付けによって生まれたものです。
以上は、前回と同じく安来節保存会会報誌による要旨です。
踊りの源流については異説もあります。それは砂鉄採り作業や鉱山の選鉱作業動作等に端を発するのでは、というものです。山陰地方はいうまでもなく砂鉄の一大生産地でした。その砂鉄を原料とした「たたら製鉄」は、刀剣の製作等には欠かせない品質の高い鋼(ハガネ)造りとして知られていますが、現在は殆ど鉄鉱石を原料とした近代設備生産に置き換えられています。「たたら製鉄」については、安来市にある「和鋼博物館」などで詳しく知ることができます。
その砂鉄採りやその選別作業等の、いわゆる「土壌すくい」作業姿が似ているといいます。伝統的な「たたら製鉄」は奥出雲にある一箇所で、毎年、大寒の近くに行われていることが、今年1月のNHKラジオ放送「音の風景」でも、勇ましい掛け声まじりで紹介されていました。厳寒の日々の中での厳しい作業によって鋼が鍛えられる様子が、新年にふさわしい風物詩として伝わりました。

 

2009.4
どじょっこ雑記(6)             中村英生
前回の異説についての説明がやや不十分でしたので補足します。
「どじょうすくい」踊りが砂鉄採り作業や選鉱選別作業動作に端を発するという・・・これは女踊りの振り付け師が、各種の似た踊りを参考にしたのではないかということであって、いわゆる男踊りの一般的な「どじょうすくい」は、まさに、鰌を掬い捕る動作そのものなのです。そういう意味で、区別しておく必要があると考えられます。
さて、今年のNHK大河ドラマ「天地人」が1月4日(日)から始まりました。
私は当日偶然観ましたが、周知の上杉家の家老直江兼続の物語です。初回のこの日は、兼継幼少のころの話が放映されていました。与六(兼続幼名)が弟と共に、母の持病に効くという鰌を掬い捕っているところへ、父の惣右衛門(高嶋政伸)も一緒になって鰌を追い掛け回すシーンが映し出されました。膝まで浸かる小川か沼池の中で、ザルを使ってまさに掬っているシーンです。母を慕う子の心をも映しているようで、その真剣な眼差しと追いかけまわす姿は、踊りになぞって見入ってしまいました。また、それほどに栄養価が高く滋養食のひとつとして、遥か昔から鰌は重宝されていたことが窺がえました。
ドラマといえば昨年秋に、野坂昭如原作の映画「火垂の墓」が、岩波ホールで上映されました。私の師匠が劇中の「どじょうすくい」を指導した経緯がありましたので観にいきました。著者の実体験にもとづくという小説の実写映画です。1945年終戦前後の神戸周辺を舞台にしたその小説では、どじょうすくい踊りの話はありません。また20年ほど前にアニメ版が製作されましたがその絵コンテにもありません。今回の映画劇中では主人公(兄妹の兄)が2回の「どじょうすくい」を踊ります。一回目は夕食のあと家族団欒の時、レコードをかけちょっとサワリだけです。戦乱の中で父親は出兵し還らず、持病の母親は空襲で倒れ、住むところも失った幼い兄妹は、親戚からも見放され防空壕跡に住みついていました。ある日、月と星あかりに照らされ蛍とともに踊ります。朽ちた板切れをザルにみたてて、自ら唄い見事に踊りますが、本来滑稽な踊りである「どじょうすくい」も、心が傷む悲しみ溢れる踊りとして滲みます。生死を彷徨っているなかで、剣道と共に習い覚えた「どじょうすくい」を唯一のささやかな愉しみとして、また自らを励まし必死に生きようとしたのでしょうか。しかし、終戦すぐの混乱期のなかで、身寄りもなく飢えによる衰弱が原因で、妹に続いて主人公も幼い命が絶えることになります。 

 

2009.5
どじょっこ雑記(7)            中村英生
田植えが始まり、小川や田んぼにも生き物が活発な動きを始めています。
既に田植えを終わったという知人に聞いたら、鰌を一匹見つけたといい、タニシは外来種が増えて、稲の根を食い散らすと言っていました。農薬使用など改良されてはいるけど、なかなか昔のようにはならないようです。減反や土地転換で田んぼや小川が遠くなりました。市川市の私が住んでいる辺りでも、住み始めの頃は沼地、田んぼや畑などが残っていて、子供を連れてひと遊びもできました。そして夜には千葉県の民話を聞かせたりして・・・、そう!一番人気は断然、私の特別脚色編「証誠寺の狸ばやし」。木更津では、童謡「証誠寺の狸ばやし」の多少違ういくつかの踊りを十数年前に定型化し、その伝承保存のため「木更津証誠寺のたぬきばやし保存会」が設立され、小学生への普及やボランティア出演など積極的な活動をしています。会長は年配のご婦人で、偶然にも、句会(主宰されている?)のために月に一度は市川に来られるとか・・・。さらに、昨年夏の全国高校野球選手権大会のテレビ観戦中に、木更津総合(中央)高校々歌の作詞をされていたことがわかり、またびっくり縁でした。木更津駅の近くにある、童謡や民話が有名なわりには小さな寺の名前は、「證誠寺」と書きます。その寺を訪ねた2年前の晩秋のある夕方、銀杏拾いにきていたテーラーを営んでいるというKさん。境内の詳しいお話を聞かせていただきましたが、お元気なのだろうか・・・。
読み聞かせた民話のなかで、隣町の松戸市に伝わる「ドジョウの祝言」というのがあります。「昔、ある田んぼに働き者のドジョウがいた。そこでナマズが“どこかにいい娘がいたら紹介しろ”と仲間に言っていた。そこで東の田んぼのナマズがタニシの娘を連れてきたが“こんなブツブツ文句いう娘はいやだ”と断った。今度は西の田んぼのナマズがコイの娘を連れてきたが“いつも口をパクパクしているのは嫌いだ”という。“もう勝手にしろ”と、ナマズが怒ったら地震がおきた。慌てたドジョウは、“実は、ドンジョウに好きなのがいる”と。それを聞いたナマズは喜んで、自ら仲人になって畔に建つ水神様の前でめでたく式をあげたと・・・」。まあ、こんな粗筋の民話です。
(“千葉の民話”岡崎柾男著・・・からの要約です)

 

2009.6  展望台
どじょっこ雑記(8)               中村英生
他にも民話が・・・、岐阜県関市のある地域にもありました。いうまでもなく、刃物生産が有名で、「関の刃物」としてのブランドを持つ街です。年一回の刃物まつりも開かれています。日本刀の鍛錬場も観光スポットとして存在するということなので、もしかしたら材料となる玉鋼(たたら製鉄)で、古くから山陰・島根県、とくに安来の街とも往来があり、安来節そして「どじょうすくい」などと関係ある話はないのだろうか。そんな多少の期待をもって、問い合わせたところ「さあ、聞いてませんね〜」と、やや寒(さぶ)いお応えのように感じたので、「そちらは寒(さぶ)いんですか」などと、あわやつまらぬことをいうとこでした。安来市でも毎年「やすぎ刃物まつり」が開かれています。安来の名をとった「ヤスキ鋼」があるくらいで、多くの職人さんが全国からやってきて賑わう刃物まつりです。さて、関市に伝わる民話「仏のどじょう」です。
「入江のように山の中へ入り込んだ田んぼには、“○○洞”と田んぼを作った人の名前がつけられていた。“じんねさ洞”の向かいに底なし沼があった。ある日、お百姓さんが沼の傍で休もうとして、過って石につまづき沼に落ちてしまった。お百姓さんは、助けてエ〜と叫んだが、とうとう笠だけが蓋のように残って沼に沈んでしまった。村人は“笠ぶた”と呼んで恐れていたけれど、“昨日は吾作どんが落ちた”、“今日は権六どんが…”と沼に落ちる人が絶えなかった。村人たちが相談し、近くにあった大岩で沼をふさぐことにして、綱を掛けて皆で引張った。しかし、もうちょっとの所まできて、大岩はまったく動かなくなってしまった。これを見ていたお寺の和尚さんが“どうした事かの〜”と岩の上を覗いた。すると岩のてっぺんの窪みに、どじょうが数匹泳いでいた。和尚さんは“村の衆や、これは仏様のお使いじゃ、仏様も手伝ってくれている、もう少しじゃ”と励ました。村人たちは再び力を合わせ、やっと大岩で沼をふさぐことができた。村人たちは、そのどじょうを“仏様のお使いじゃから、大切にしなくちゃ〜”といって、近くのきれいな谷川に放してやった…」と。この話は、“わかるまで”池村兼武著、“関の民話”旭丘小PTA編を参考文献として公開されている民話、「仏のどじょう」の要約です。

 

2009.7
どじょっこ雑記(9)
暦はまわって、七月は土用丑の日がやってきますが、鰌と鰻のここ一番の季節です。
鰌の人気は圧倒的に劣勢で、やっぱり長いものに巻かれろというのが世の習い?ですから・・・。しかし、栄養価でみると決して負けてはおらず、鰻一匹に鰌一匹といわれるほどなのです。初めて「駒形どぜう」へ行ったのは、30数年前のことで、鰌が好物だった亡き義母を伴ってでした。ご存知のとおり「どぜう」は旧仮名遣いではなく造語です。屋号“越後屋”初代助七の時に店が火災にあい、その再建開店時に新しい暖簾をつくることにしたのです。初代助七は、浅草寺への参拝客をびっくりさせようという意図、さらに“どぢゃう”の四語は縁起が悪いなどと考えて、有名な看板屋に頼み込んで三字暖簾「どぜう」と書かせたという逸話があります。「駒形」を「こまかた」と読み、今尚その由来と共に地元の江戸情緒をも伝えているようです。駒形橋の浅草側の袂に、東京都が建てた碑「駒形橋」には、「駒形(こまかた)の名は・・・」と説明書きがあります。現在の行政上の町名は「こまがた」と濁ります。「駒形どぜう」は、“はとバスコース”登場歴50数年を経て、今も“はとバス大江戸コース”の食事処となっています。昔から著名な文化人などの出入りが多く、各種紙誌にも紹介され、店内でのイベントを開催したりとかで認知度抜群です。店の出入り口袖には“久保田万太郎”の、「神輿まつまのどぜう汁すすりけり」と刻まれた句碑があります。西暦1801年(享和元年)の創業で208年の歴史を誇り、江戸の風情を感じさせる風格ある老舗です。鰌に酒を飲ませ、「もう、これ以上飲めないよ〜」と、そこをさらに飲ませてぐったりして意識を完全に失ったところで、味噌仕立ての鍋風呂にドーンと入れて、一気に昇天させるのだそうです。まさか今生の別れとかいって銘柄にこだわって、いい酒を飲ませているわけではないと思いますが・・・。今年は“二の丑”もあるので、何処で「どぜう」を食べるなんてぇ〜のはじょう

 

 

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