サラリーマン文化芸術振興会

会員のページ・・どじょっこ雑記 3/3 中村 英生


2010.8
どじょっこ雑記(21) 中村英生

〜店内に貼られていた絵「おじいちゃんの“どじょう掬い”踊り姿」〜
JR両国駅から京葉道路へ出て両国橋を渡る手前に「どぜう 桔梗屋」があります。ここは、さすがに国技館から近いので力士の手形や取り組み表など相撲関連のポスターなども張ってあり、贔屓の相撲部屋もあるらしく○○部屋の写真が飾られていましたが、今はないので営業上好ましからず・・・かもしれません。店内はややウナギの寝床タイプで、座卓がいくつか並べられて20数人分の胡坐座席です。2階にも席があって利用できるそうです。店内の出入り口の側に井戸みたいなものが覗けたので、「なんですか?」と訊ねると、鯉と鯰の生簀になっていて、必要によって立てかけてある網で掬うのだそうです。今は直系の娘さんが店内の接客をしていますが明るく元気です。広くない店内ですが、壁にあれこれ貼ってあり、昭和8年創業で記念のポスターも作られ、壁には某書家の色紙「どじょう」が掛けられ、いい味?です。
町屋駅の近く尾竹橋通りから路地を入った処に“どじょっこ”の暖簾があります。3年ほど前に、養老ホーム慰問ボラのために、JR大塚駅で待ち合わせて都電荒川線で現地へ向かいました。その車内広告に”どじょっこ“があったので、「オッ!」と思ったのですが、他の同行者は「ウーン」と微反応!。それから2〜3ヵ月後の夕方、その店の戸を引いて、入れ込み胡坐座席には二組の先客がいたことでホッとして席に着きました。ひょいと部屋を見回すと、出入り口側の勘定場に「どじょう掬い踊り姿」の絵が貼られていたのです。
私は、「えッ!どじょう掬い!」と思って、女将さんに問いてみたら、「子供が描いたので店に貼っておいたんですけど、おじいちゃんが亡くなったので外すに外せなくて・・・」と話をしてくれました。「おじいちゃんッて、どじょう掬い踊りやってたんですか?」「そうなんですよ。子供(孫)を連れてあちこちへ行ってたので・・・」。
その絵は、破れかけてはいますがいまだにあります。

 

2010.9
どじょっこ雑記(22)  中村英生

〜“どじょう施餓鬼”のお寺〜
埼玉県杉戸町に永福寺という寺があります。毎年8月に大施餓鬼行事が行われ、「どじょう施餓鬼」とも呼ばれています。また、関東三大施餓鬼のひとつにも数えられるといわれます。以下、鰌の放生所でもらった説明書による大まかな話です。「約600年前、高野城主は政治を怠り、酒に溺れ、街道を通る身体の不自由な人などを殺した。
その奥方は深く嘆き、子供を比叡山へ登らせ自らは自害した。数年後、日尊上人となって戻った子供は、城主父を諌めて阿弥陀寺(今の永福寺)を建てさせた。しかし、城主父は落馬して一昼夜苦しみ、ついに死んでしまった。上人はその死相の凶悪なることを嘆き17日間断食をした。そして成満の日悶絶気絶したが、翌日忽然として生き返り、“閻魔大王にお会いして父に会ってきたが、見るに偲びなく目を覆うばかりであった”と。そして”大王に得脱の方便を聞いた“と。即日100人のお坊さんを呼んで因幡の池畔に集めて大施餓鬼を行なった。すると、父をはじめ成仏できない人々が龍に乗り極楽浄土へ旅立っていった。時に明徳3年7月23日。以来、毎年どじょう施餓鬼を行っている。どじょうは龍に似ていることから龍にたとえられ、どじょうの背中に乗って先祖様が極楽浄土へと旅立つために、どじょうを池に放す・・・」と。この寺の裏手が墓地で道路を挟んで公園があります。そのほぼ中央に木立に囲まれた小さな因幡池(溜池)が眼下にあって、その池畔に祭壇と”どじょう放生所“が作られています。小さなザルに入った数匹の鰌の放生料は300円。トイを通して池に放してやりますが、その時合掌し祈ると極楽浄土へ行けるといいます。ところで、「池の鰌はどうなるんですか」と、気になることを問いてみました。「トイの先端には網が沈めてあって、そこに集められている」ので、「施餓鬼が終わったら、すぐ近くの川へ放す」のだそうです。天国どころではなく、近くの川へ放り投げられるのかと・・・あぁ〜、少々のぞみをかけた私が悪かった・・・。


2010.10
どじょっこ雑記(23)  中村英生

〜落語「小言念仏」の“どじょう売り”〜
落語には、熊さん・八ッつぁんなど多彩な人々が登場します。落語は、殆どの場合特別な衣装や音楽もなく小道具は扇子と手拭いぐらいで、登場人物同士で話を進めて、言葉と表情及び若干の仕草で表現をする伝統話芸の一つです。昨年4月、新聞でドキュメンタリー映画「小三治」の話題が載っていました。ちょっと興味がある噺家と思っていたので、東中野にある小劇場で観ましたが、2回目は小岩の上映会で観る機会がありました。
その後、小三冶のCDを聴いた中に「小言念仏」があったのです。
長屋で、親父が朝の忙しい時間に自分は念仏を唱えていながら、女房にあれこれ小言をいいます。女房が朝餉の味噌汁の具を何にしようかとウロウロしていると、念仏を唱えている親父が「そろそろドジョウ屋がくるから・・・」と。そのうち、家の前の通りを「どじょう売り」がやって来ます。そして、“早くしねえと行っちまうぞ・・”などと念仏を唱える合間に言います。そのうち、“ナムアミダブッ ナムアミダブッ・・・”の念仏が、ドジョウ屋を呼ぶ声と取り違えて“オイッ ナミアミダブッ”と呼びつけてしまう・・・。三代目三遊亭金馬のCDもあって聴いてみましたが、それぞれの味わいがあると思います。・・・アサリ・シジミや、納豆売りなどに混じっての、“♪どぅじょ どぅじょう〜 どじょッ♪”という売り声も・・・はるか昔のこととなりました。ほかにも「どじょう」に関わる落語は
2〜3あるらしいのですが、残念ながらその噺の確かな存在と内容を私は知りません。
“鰻”を捕まえようとする身振りの写真が載った新聞記事のコピーを昨年11月に戴きました。
落語「素人鰻」を演じている桂歌丸のショットで、「どじょうすくい」の鰌を捕まえる所作そっくりです。
今は亡き八代目桂文楽のCDを聴きましたが、機会があったら「素人鰻」の実演を聴きたい、いや観たいです。



2010.11
どじょっこ雑記(24)  中村英生

“どじょう”も原告・・・「ドジョウ訴訟」
「落合川の小渓谷を保全する会」が起こした「東久留米市落合川ホトケドジョウ自然の権利(生きる権利)訴訟」の一審判決が今年4月に言い渡されました。訴訟を知ったのは何年か前のA新聞の「ドジョウも原告」の見出しで小さな記事でした。その時は「へぇー!ドジョウが原告の一員?」と思っていました。ところが一審判決が出たことを7月に知りました。原告は「落合川、ホトケドジョウそして市民4名」。ホトケドジョウ(仏鰌)は清流域にしか棲めず環境省の絶滅危惧種に指定されています。私は9月初旬に初めて現地へ行って、買い求めた地図と資料を手に問題の付近をウロウロしてみたのです。詳しくはわかりませんが、いわゆる自然環境保護訴訟で既に旧河川の一部曲線流域が直線化へ変わり、一帯が護岸及び遊歩道などの整備工事中でした。
夕方バス停へ歩き着いたら、停留所前になんと「どぜう」の提灯が見えるのです。思わずハッとしました。
店の引き戸を開けると、調理場をL字型に囲んだカウンターがありました。親父さんの話では、開業が東京オリンピックの年というので40数年ということになります。昔は、源流に滾々と湧き水が豊富で鰌も沢山捕れたそうで、どこの家でも井戸を掘っていたといいます。今は、他の地域と同様に周辺の開発が進み井戸がある家もわずかで、
そのなかの一軒がこの店です。開店当初は「今時、鰌なんか食う奴はいない」と言われたのが、今では高級魚なみの価格で、かつ入荷に1週間もかかると嘆いていました。提灯の「どぜう」に偽りなく、どじょう料理メニューは7種類で立派などじょう料理屋さんです。やがて順次に常連客が2人。一人は若い人で、築地の川魚専門店で働いていて“丑の日”近くは徹夜仕事もあるそうで話も新鮮です。普段は深夜2時に家をでて午後1時半頃に上がる仕事を2年程やっているなどと話してくれました。その彼がこの店に鰌を卸しているようです。
そのおにいちゃん曰く「またお会いしましょう!・・・」と。はにかむような微笑に互いの心が触れた想いです。

 

2010.12
どじょっこ雑記(25〆) <最終回>          中村英生

〜「どじょうすくい」から「どじょう文化」へ〜
ある旅行小誌の片隅に珍行事として、山口県にある「どじょう森様」と呼ばれる社が小さく紹介されていたことがありました。詳しい祭り事は知りませんが、こんな記事が載るのは珍しいことです。全国には、まだまだ鰌に関する行事・言い伝えや習慣など沢山あるのではないかと思います。
「どじょっこ雑記」を書き始めて既に2年となりました。あっちこっち探っているうちに多くの出会いと“どじょう文化”あることが分かりました。考えてみれば江戸時代まで国内の経済を支えてきた根幹に稲作文化があって、日々の野良仕事・生活の身近に鰌が存在したからこそ、諸行事習慣が残されているのだと思います。しかし先行き不安な農業、自然環境はどうなっていくのだろうかなどと強く思わずにはいられません。また日本の文化そのものが変化してきていると思わざるをえない昨今で、独特の日本文化がどうなっていくのだろうなど・・・と思ってしまいます。昔むかし、厳しい農作業のあとの団欒でお酒も入り手拍子を打って唄い、肴の鰌を捕る姿を滑稽な仕草でつい踊りだしたという「どじょう掬い」。
安来節が「どじょう掬い」と共に、全国的に知られるようになったのは初代渡部お糸などを先頭に、全国公演行脚の努力があったからこそでしょう。大阪吉本興行の初代社長は寄席の不況もあって、早くから安来節に目をつけ安来の町などへ通い、ようやく大阪公演が実現しました。やがて東京浅草の木馬亭(今の木馬館)でも、浅草の旦那衆の肝いりもあり安来節の常設館となり、永い間浅草を訪れる人を楽しませました。今では、正調安来節が確立し定着してきました。民謡安来節が、先人の大いなる努力によって全国一般に知る人が多いわりに親しみが薄く感じられるのは、この唄の難しさとも無関係ではないかもしれません。故に「どじょう掬い」などがその普及を補っていることも事実ではないかと思います。
来年は安来節保存会創立100周年記念の年です。諸々の行事が盛大に行われることと思います。私はいつの日か、ザル・カゴ背負ってふらっと成田空港を発ってみたいと夢をみはじめています。
さて、この「どじょっこ雑記」は今回で“おわり”とします。これまで編集部及び関係者の皆さんにご苦労をおかけしました。誌上をお借りして御礼申し上げます。

 

2011.5 展望台    中村英生

講座再開
少し前の4月上旬、私は旭市そして郡山・福島へ行ってきました・・・といっても被災地へ支援に向かったわけではありません。講座が再開されたためです。
旭市は、千葉県で津波の影響を大きく受けたところです。車で海岸線を案内してもらいましたが、瓦礫の山はテレビの映像とは迫力が違います。風評被害で野菜をタダ同然に買い叩かれて、捨てた方が益しと悔しがっていた人もいました。福島まで開通していた新幹線も臨時ダイヤで1時間半に一本程度、さらに余震で臨時停車遅延・・・車窓には畔道や畑に置き去り状態の耕運機が点在しているのが見えます。しかしいずれもジッと動かず、作業している人も見かけません。例年通りの農作業が早くできるように・・・と深く思いました。郡山・福島では風評被害を気にしてか「ホントに来てくれるんですか?」「こんな状況の中でよく来てくれて・・・」と。ほかに私は何が出来るのだろう・・・。
夕方忙しげなJRのS駅前で、「あしなが学生募金事務局」のタスキをかけた若者が一人、自分の境遇を挟みながら訴え続け、募金者に深々と丁寧なお辞儀をしていました。印象が消えないその姿に足を止めざるを得ませんでした。
私の家の近所の小さな公園で桜の花びらが蝶のようにヒラリハラリ舞う・・・捕まえようとする小学生。親水公園で自転車の荷台に乗った幼稚園児とヤンママとの会話・・・「ママ、花びら泳いでるよ」「そう、泳いでるの?」。詩歌の心得もありませんが心和む情景に出会え、いつもの平穏な環境にいることに気づきました。
サラ文には各分野で活躍している多くの方々がいます。人はそれぞれ意識せずとも自身の文化をもっています。とかく無機質になりがちな世の中ですが、会員相互の交流及び諸活動へ自主的に参加し、語らいなどを通じて未知なるほかの人のもつ文化を知ることができます。そのことが自分自身を包む文化をより豊かにできるのではないでしょうか。そして甚大な災害に心を寄せることにもなり、やがて復旧・復興の道へもつながっていくのでは・・・と思っています。私は、サラ文会員であることにひとつの誇りを感じています。               

 

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