ある喫茶店のメニューに「舶来ウイスキー」とあった。いまどき舶来という言葉もめずらしいので若い方に聞いたところ、ハクライという言葉を知らなかった。「輸入品のことですよ」と教えると「ああ、安物品のことね」と答えた。たかだか30年位で言葉はみごとにひっくり返ったのである。しかし舶来物は輸入物と訳すしかない。ジョニ赤もジョニ黒も依然として舶来である。衣料品も著名ブランドならともかく今は国産のほうが高級品で、身近な野菜でも、米国産や中国産は農薬の懸念があるため私は割高でも国産を買っている。
もうひとつ思い出した。昔友人が恩師を結婚式に招待した。恩師は謙遜して「私のような年寄りでよいのですか?」というと、友人は「ぜひ来てください、枯れ木も山のにぎわいですから」と明るく答えた。私は背筋が凍りついたが友人はこれをほめ言葉だと勘違いしていたのだ。メールでのやりとりだったら、決して返信はなかっただろう。
変幻自在の日本語はむずかしいけど、それゆえ昔からいろいろな言葉遊びを生んできた。点がどこにあるか、また濁点があるかないかで「ちかった将来」のはずが「ちがった将来」が来てしまうし、タメになるものもダメになる。山ほどの同音異義語(貴社の記者さんは汽車で帰社しましたよ)、また恐ろしいことにまったく正反対の意味の同音語もある。(冷遇と礼遇、不動と浮動)。他にも枚挙にいとまがないほど豊富な言葉の文化があるが、それはそれとして、英語を小学校から教えるか否かが論議されてます。言葉は早期教育がよいとの説だそうで、それなら日本語も同じこと。自国語だって幼少からたくさん使うことも必要で、赤っ恥をかきながらも覚えていくしかないと思う。昔職場に帰国子女がいて当然英語は話せたので、当時はそれだけでとてもできる人のように思いこんだが、それと仕事ができることとは別のことでした。でも英語も話せるにこしたことはないので、さてどっちがよいのか迷うところですね。
落合 正子